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短編小説『学べるクスリ』

 わたしはテーブルの上の小さな瓶をじっと見つめていた。
「『知識薬』ねぇ」
 瓶のラベルにはそう書いてあった。なんとも胡散くさい。
 確かに、わたしも悪かった。久しぶりに自動販売機のドリンクでも飲もうかと思いついたまではいい。せっかくだから変わったものに手を出してみたいと考えるのも悪くない。でも、ディスプレイの端にひっそりとあった「?」とだけ書かれた商品に手を出すべきではなかった。考えなしに行動するのは、わたしの悪いクセだ。
「『知識薬』……ねぇ」
 わたしはもう一度つぶやく。最近は薬の自動販売機も出始めているらしいが、こんな薬は聞いたこともない。そもそも、あの自販機に並んでいたのは、ごく普通のドリンクばかりだったのに。
「『知識薬』…………ねぇ」
 わたしは三度つぶやく。普通ならこんな怪しい飲み物を口にするなんてもってのほかだ。けれど、わたしはこの薬(?)に強く惹かれていた。
「この薬があれば……」
 ラベルに書かれた説明によると、この薬は口にしてから一時間、目にした物事を完全に記憶できるようになるのだという。それなら『知識薬』ではなく『記憶薬』が正しいんじゃないかと思うが、ここでネーミングをあれこれ言っても仕方ない。
「こんなわたしでも、知識さえ手に入れば……」
 自慢じゃないが、わたしは勉強が大の苦手だ。本屋に足を踏み入れただけでめまいがしてくるし、物覚えもすこぶる悪い。指示されたことはなんでも従順にやるので仕事にあぶれてはいないが、理不尽な命令に従うだけの毎日にうんざりしていた。
 わたしに足りないのは、知識だ。知識さえあればきっとこの現状が変えられる。もっとまともな人間になれるはずだ。
 目の前の小瓶を見つめる。小さなガラス瓶の中には、薄いピンク色をした液体が入っていた。
 気づけば、わたしはその怪しげな薬を飲み干していた。
「うっ……」
 喉の奥からせり上がってくるような気持ち悪さに、思わずえずく。舌の上にピリリとした刺激が残る。なんだか身体中が熱くなった気がした。
 わたしはたまらず目を閉じる。
 異変はすぐに起こった。瞼の裏に広がる暗闇の中に、光が灯ったのだ。光は徐々に強さを増していく。眼球が痛くなるほどに。
 光に耐えきれず、思わず目を開く。
 視界いっぱいに飛び込んできたのは、見慣れた自分の部屋だった。
「え……?」
 一瞬混乱したが、落ち着いて考えてみれば当たり前のことだ。ここは間違いなくわたしの部屋だし、何もおかしなことはない。強いて言えば、いつもより部屋の中が広く感じることと、窓の外の遠くの景色までくっきりと見通せるようになったことくらいか。
「……あれ?」
 視界だけでなく、頭の中もすっかりクリアになった気分だ。まるで十年来の汚れを洗い流したような感覚に、ふつふつと期待感が競り上がってくる。
「! 急げっ!」
 わたしは取るものもとりあえず部屋を飛び出し、書店へと走った。

 息せき切って店内に飛び込んだわたしに、カウンターにいた店員がぎょっとした目を向ける。
「い、いらっしゃいませ」
 そんな彼の様子にかまわず、わたしはカウンターを乗り出す。
「本を、本をください!」
「……どのような本をお探しでしょうか?」
「え、ええと」
 焦れば焦るほど言葉につまる。頭の中はクリアなのに、ただ空っぽなだけで何も出てこない。
 ただでさえ、普段足を踏み入れない書店を探すのに手間取って、残り時間はすでに半分を切ってしまっている。
「! ここにある本、全部ください!」
 わたしはカウンター横にあった「話題の新刊」と書かれた小さな棚を指差す。
「ぜ、全部ですか?」
「急いでっ!」
「は、はい! かしこまりましたっ」
 店員と一緒になって、本をまとめてカウンターの上に置く。
「今すぐ読める場所はない?」
 一冊ずつバーコードを読み取っている店員にイライラしながら尋ねると、店の向かいにカフェがあると教えてもらう。
「お、お支払いは……」
「っ……カードで!」
 現金をほとんど持っていないことが悔やまれる。カードじゃあ「お釣りはいらない」と札を突き出すこともできやしない。
「あ、ありがとうございました」
 わたしは本を抱えて、書店を飛び出した。

「……ああ、もうっ!」
 必死になって向かいの店に飛び込むと、そこはセルフ式のカフェだった。わたしは本を手近なテーブルに放り投げ、注文待ちの列ができているカウンターに向かう。
「ええとー、おすすめって何ですかー?」
 レジ前の脳天な女を張り倒してやりたい。
「お、お先にどうぞ」
 苛立ちを隠そうともしないわたしを怖がってか、横の列にいた人が順番を譲ってくれた。
「いらっしゃいませ」
「ホットコーヒーひとつ」
「サイズはいかがしますか?」
「っ 一番大きいヤツ!」
「今でしたら、セットでこちらのマフィンがお安くなりますが……」
「いらない! 急いで!」
 わたしは財布からあるだけの現金を取り出し、カウンターに叩きつける。
「も、もうしわけありません。当店はキャッシュレス決済のみとなっておりまして」
 この店員が悪いわけじゃない。そうわかっていても綺麗な顔をぶっ飛ばしたくなる。
「っ……じゃあ、カードで!」
 わたしは急いで支払いを済ませ、カップをぶんどるようにしてテーブルへ向かう。残り時間はもう10分を切ってしまっている。今から間に合うだろうか。
「急がないと……っ」
 積んである本を一冊手に取り、開く。すると……、
「!」
 まるで写真で撮ったかのように、視界に映る文章が一瞬で頭の中に入った感覚がした。
「……これなら」
 次々とページを捲る手が速くなる。頭の中で文章の内容がどんどん記憶されていく。
「これなら、いける」
 わたしは残りの本を次々と手に取った。

「――はぁ」
 わたしは大きくため息をつく。なんとか間に合った。
 結局、わたしは閉店ギリギリまでカフェにいた。本はすべて制限時間内に読み終えることができたが、一気に詰め込まれた知識を整理するのに時間が必要だったからだ。
「まるで頭の中に本棚があるみたい」
 そうやってイメージするとしっくりくる気がした。何か知識が必要になれば、本棚から適当な本を一冊取り出してページを開く。そして内容を再確認する。こうすれば頭がパンクせずに済む。
「さて……、そろそろ帰ろうかな」
 気づくと日付が変わる時刻になっていた。いつものわたしならこのままどこかに遊びに出かけるか、部屋でダラダラとネット動画でも見て過ごすのだが……。
「もう、これまでのわたしとは違う」
 わたしは立ち上がり、荷物をまとめる。本によると「睡眠のゴールデンタイムは22時から2時の間」らしいので、早く帰って寝ないと。
「明日も仕事だしね」

 翌日からのわたしは、生まれ変わったようだった。
 本の知識を徹底的に実践することで、今までとは比べ物にならないほど効率よく仕事を進められるようになったのだ。
「おはようございます」
「お、おはよう」
 上司に挨拶をするわたしの声に、以前のような気弱な響きは微塵もない。自信に満ち溢れているのが自分でもわかる。
「今日もよろしくお願いします。早速ひとつ、提案があるのですが――」
「あ、ああ……」
 それどころか、自分の意見すら堂々と言えるようになった。以前のわたしでは考えられないことだ。
「ねえ、ちょっといい?」
「は、はい。なんでしょうか」
「ここなんだけど――こう直したほうがいいと思うのだけど」
「す、すみません」
 恐縮する後輩に、いかんいかんと自分を戒める。コーチングは一方的に押し付けるのではなく、まずは受け入れることが大事なんだった。
「……いまのは一旦忘れて、一緒に考えてみましょう」
「わ、わかりました」
 彼に手近な椅子に掛けるよう促し、わたしは腰を落ち着けて向き直った。
「――ありがとう。とても参考になったわ」
「い、いえ、こちらこそありがとうございました」
 ふう……、これで今日のノルマは達成っと。
 わたしはデスクに戻り、一息つく。すると、隣に座っている同僚が話しかけてきた。
「なんか、変わったよね」
「え?」
「雰囲気とか、話し方とか……前と全然違う」
「そうかしら?」
 まあ確かに、以前よりだいぶ積極的になっている自覚はあるけど。
「前はもっとオドオドしてたっていうか、頼りない感じがしてたから」
「きっと薬のおかげね」
 わたしは自分の頭を指し笑う。
「薬?」
 彼女はそんなわたしに首をかしげていた。

 ――10分やそこらの詰め込み知識では、限界があったようだ。
「これは、どうすればいいの?」
 必死に頭の中の本棚を探しても、該当する知識が見つからない。最近はこんなことが増えてる気がする。メッキが剥がれ出したわたしに、周囲も疑いの目を向けはじめているのがわかる。
「……こうなったら」
 わたしはデスクから立ち上がり、営業に出てくると理由をつけて会社を飛び出した。
「あった」
 目の前には、あの自動販売機。そして、「?」と書かれた瓶。
「今度は、準備万端ね」
 前回の反省を活かし、事前に書店で良さそうな本を買い込んできた。相変わらず表紙を見るだけで目眩がしてくるが、この薬さえあれば……。
「念のため、もう一本買っておこう」
 わたしは二本の瓶と大量の本を手に、近くのカフェに走った。

 ……いま、わたしは悩んでいる。
「どういうこと?」
 さらに多くの本を詰め込み、頭の中はもはや小さな図書館のようだった。幅広いジャンルの本に満遍なく手を出すだけでなく、仕事に直接関係ある分野に限っては何冊、何十冊も似たような本を詰め込むようにもしていた。ところが、
「……どっちが正しいの?」
 本によって、主張が微妙に異なることに気づく。中にはまったく正反対のことが書いていたりして、どちらの情報が正解なのか判断に困る。そんな状況が続いていた。
「こうなったら……」
 さらに似たような本をかき集めて、多数決にするしかない。
「まだ薬のストックはあるし、ね」
 わたしは会社のロッカーに視線を送る。昼食の買い出しついでに、また新しい本を仕入れてくるとしよう。

 また、限界が来てしまった。
「先輩、ちょっと教えてほしいんですけど」
「ねえねえ、これお願いできない? ちょっと〆切に間に合いそうになくて」
「大丈夫。君ならもっと新しい提案が出せるはずだ」
 周囲の期待が高まるにつれて、わたしへの要求の量も求められる知識の幅もどんどん拡大していった。あれから数えきれない量の本を読んだにもかかわらず、ちっとも対応できやしない。知識って、際限なさすぎない?
「……得意先周りに行ってきます」
 わたしは逃げるように会社から抜け出した。
「本も、薬も。もっと、もっと買い込まなくちゃ」
 もう、あの薬が無ければ生きていけない。中毒気味な自分を自覚していたが、もう止まれなかった。

 ――その日は、突然訪れた。
「…………嘘でしょ」
 目の前には、お馴染みの自動販売機。しかし、「?」と書かれた瓶の上には、
「売り切れ?」
 非情な貼り紙が、無情な事実を告げていた。なぜ、どうして。何があったの?
「そんな……」
 貼り紙をじっと見つめていても、現状は変わらない。わたしはこれからどうやって生きていったらいいのだろう。
「ん?」
 ふと、目の前しか見えていなかった視線が隅に気になるものをとらえる。そこには、
「新商品……?」
 いつからあったのだろう。そこには見慣れない貼り紙付きの瓶が。しかもラベルはお馴染みの「?」である。
「なんだ、リニューアルしただけか」
 ほっと胸を撫で下ろす。絶望から救われたわたしは、さっそく新しい瓶を購入した。

 あれからしばらくして――わたしはテーブルの上の小さな瓶をじっと見つめていた。
「『智慧薬』、か」
 瓶のラベルにはそう書いてある。胡散臭いことこの上ない。
 あの自動販売機で購入した、例の新商品がこれだった。てっきり知識薬の新バージョンだとばかり思っていたが、出てきたのは予想外のものだったのだ。
「『智慧薬』……か」
 わたしはもう一度つぶやく。あれから再度あの場所へ足を運んだが、なぜか自動販売機そのものが無くなってしまっていた。手元に残されたのは、この瓶一本だけ。
「『智慧薬』…………か」
 わたしは三たびつぶやく。以前とはまるで逆のネーミングをした薬。だが、今のわたしはこの薬を強く欲していた。
「この薬さえあれば……」
 ラベルの説明書きによると、この薬を飲むことで『知識薬』によって得た知識がすべて頭の中から消えてしまうのだという。それなら『忘却薬』とでも名付けるべきではないだろうか。などと、ちぐはぐなネーミングにケチをつけても仕方ない。
「この薬で、昔のわたしに戻れるなら……」
 重要なのは、その効果だ。
 どれだけ知識を詰め込んでも、対処できない事態が山のように押し寄せてくる。下手に知識を披露しようものなら、これ幸いと周囲が一斉に頼りにしてくる。初めのうちは気分が良かったが、自分で何も考えようともせず直ぐにわたしに聞きにくる態度には辟易していた。しかも、少しでも教えた内容に矛盾があったり、実際にやってみて上手くいかなかったりすると、鬼の首をとったようにわたしを非難する。
 ――もう、うんざりだ。
 知識なんて、あってもいいことなどひとつもない。なまじ知識があるから余計な厄介ごとに手を出し、過剰な荷物を背負ってしまう。知識人なんて、ろくなものじゃない。
 わたしは目の前の小瓶を見つめた。小さなガラス瓶の中には、淡い空色の液体が入っている。
 気づけば、わたしはその怪しげな薬品を飲み干していた。
「うっ……」
 喉の奥から、快感に打ち震えるような感覚が競り上がってきた。舌の上で甘くとろけるような風味が踊る。
 わたしは気づくと目を閉じていた。
 頭の中で、巨大な図書館がガラガラと音を立てて崩れているイメージが鮮明に浮かぶ。
 淡い光に包まれていた室内が、徐々に暗闇に閉ざされていく。その光景をぼんやり眺めながら、わたしはゆっくりと眠りに落ちた――。

***

「――あら、今日も早いのね」
「ええ、迷惑をかけてしまったから、少しでも媒介しなくちゃ」
 わたしはデスクに腰を下ろし、隣の同僚に頭を下げた。
「体のほうは、大丈夫?」
「まだ少しぼんやりするけど、少しずつ慣らしていかないわ」
 そうつぶやき、わたしは苦笑する。
 ――わたしが意識不明になって病院に担ぎ込まれてから、もう一ヶ月が経っていた。
 無断欠勤が続いたわたしを心配してくれた彼女が、部屋で倒れていたわたしとテーブルの上の透明な瓶を見て最悪の事態を想像し、すぐさま救急車を呼んでくれたらしい。
 それから一週間ほどで意識は回復したが、不思議なことに病院に担ぎ込まれるまでの数ヶ月の記憶がすっぽり抜け落ちてしまっている。覚えているのは、仕事のミスが続いてイライラした帰りに、どこかで飲み物を買おうとした、ぼんやりした記憶だけ。
「なんだか、憑き物が落ちたみたい」
 わたしの顔をまじまじと見つめて、同僚が笑う。彼女の話では、記憶になかったころのわたしは会社中の人たちから頼られるエリートビジネスマンだったそうだが、それはわたしに似た別人なんじゃないかと思う。
「お昼どうする? 新しいお店見つけたんだけど」
「ごめんなさい」
 わたしはコンビニ弁当の入ったエコバッグを指差す。
「また読書?」
「ええ」
 昔は本なんて表紙を見るのも嫌だったはずなのだが、なぜか最近は朝から開いている書店を覗くのが日課になっている。
 最初に店に入ったとき、はじめて見たはずの店員がわたしを見てギョッとした顔をしていたのが奇妙だったが、今は彼とも、互いのおすすめを紹介しあうくらいの仲になっていた。
「本って、途中で飽きちゃうのよねぇ」
 そんな彼女の言も、昔なら激しくうなずいていただろう。しかし、わたしにはコレがある。
「珍しいもの飲んでるわね」
 デスク脇のドリンク缶に視線を送るわたしに、彼女は苦笑する。いまではすっかり目にしなくなったが、昔から根強い愛好家がいるこの飲み物。たまたま書店近くの自動販売機で見かけて買ってみたが、独特の薬っぽい風味がクセになってしまった。
「コレを飲むと、読書に集中できるのよ」
「へぇ」
 気分的なものだが、頭の中のスイッチ代わりになっているらしい。
「どんな本を読んでるの?」
「今は、これね」
 わたしはバッグから一冊の本を取り出す。
 昨日までは、読みやすそうな短編集や書店の彼にすすめられた昔のSF小説などを読んでいたが、今日はたまたま目に入った少し毛色の違う本を買ってみたのだ。
「なんか、妙に気になって。ね」
 ――その本の表紙には、『学び方の学び方』と書かれていた。

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