夏の疾走、7月某日の記録
いつも些末なことで汗ばんで心臓が高鳴った青春は一瞬で過ぎ去ってしまうから、夏と似ている。だから夏さえうまく過ごすことができれば、ずっと青春を生きていられる気がするのだが、結局今年も夏の暑さを無駄に溶かしてしまうのだろうな、と思う。
最近のお天道様は北国の民にも容赦はしないらしい。私の家にはクーラーなどという文明機器もないので、扇風機の前でだらしない顔をして人工の風を受け取り、暑さをなんとかしのいでいる。そもそも暑いのは大嫌いなので、夏が少し苦手だ。
とはいえ、北国の夏は一瞬である。夏は暑い、暑いと文句を言っているうちに消えてしまうので、この夏のことを記しておこうと思ったのは、主人公が旅を記録していく「旅する練習」を読んだからだろうか。
しばらく更新もしていなかったことだし、日々記した雑記から抽出し、特筆すべきことはない今年の夏の記録をここにしておこうと思う。
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7月某日、プールへ行く。
何年ぶりだろうか。昔水泳を習っていたので、水にさえ浸かれば昔を思い出し、簡単に泳げると思っていたのだが、必死に手足をばたつかせても、全く前にすすまない。水はこんなに硬かっただろうか。幼いころの私は、やわらかな水中などぬるぬるすいすいと通り抜けていたはずだったが、今はただ同じ場所をバタバタしているように感じ、体の衰えを感じた。
クロールの息継ぎもあやしい。横を向けばなんなくできた呼吸なのに、入ってくるのは空気ではなく水。息継ぎの仕方も忘れてしまった。
とても悔しいのでプライドを捨て、ビート板を持った。手と足を一緒に使うことはたしかに難しいのだ、と三十分ほど練習したところ、足で水を漕ぐ感覚をぼんやりと思い出すことができた。
意気揚々とビート板を手放す。しかし別の問題が浮上した。そもそも体力が持たない。25メートルを泳ぎ切ることができず。泳いではとまり泳いではとまりを繰り返す。泳いだ時に感じる疲労は、陸で運動するときと何か違うような気がするのは気のせいだろうか。なんとなく頭がぼんやりするような気持ち悪ささえ感じてしまう。
水の中にいると、やはり不思議な感じがする。水中で手のひらを広げて、水中を仰ぐ。指にかかる水圧が一本ずつ時間差で襲い、人差し指から小指と遅れててのひらへ追いつく。ピアノを奏でる指の力はこんな感じなのだろうか。
水面をかき分けると水泡が立ち、水上へ波紋が広がる。アイスグリーンの水面を割って水中へ潜ると遠くに見えるターコイズブルー。プールの底には光の模様が漂う。目の前の先を見るも、ただ真っ青なだけで、目的地の壁がみえず、どこまで進めばいいかわからず途方に暮れる。
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お盆、線香花火をする。
小さいころは三本までだった。しかし、大人になるとひとり一袋、贅沢にいくつでも線香花火を咲かせることができる。
しかし、最後の一本はいくつになっても、いくつあったとしても、さみしい。
さて、最後の一つに火をつける。
和紙のこよりを辿っていく火種が火薬へとつたわり、小さな火の玉がはちきれんばかりに震えて膨張する。
その両脇から火が控えめに噴出する。だんだんと噴出した火は姿を変え、空気中の脈を辿り、瞬いた。ストロボのような明滅を繰り替えし、花火はその生命を、その微小な火花を夜に描いた。時間がたつにつれ、空気中の火の脈が広がっていく。
まだ広がるか、まだ広がるかと思うけれども、こよりは燃え尽き、火玉をささえきれなくなり落ちていった。
いや、それができればいいものの、中には火玉を作っただけで、消え落ちるものもある。それは管理方法がまずかったのか、火のつけ方が悪かったのかは不明だが、燃え尽きることすらできなかった線香花火の命を想う。
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個人的に書き散らした雑記を読み返してみると、線香花火もプールも夏らしい。文句も言いつつ夏らしさは享受しているようだ。
それでも夏の暑さに辟易してしまっている。あまりに決断しなければいけないことが多すぎる。そして私はなにも思えない、考えられないと、暑さを言い訳にして決断を先延ばしにしている。
夏なんか終われと願っているのに、風が冷たくなる時期に夏の暑さを思い出すと、いとも簡単に恋しくなる。そして都合よくプールや線香花火が様になる季節を待ち侘びてしまう。
そういうところにわたしはすこしだけ、夏の憎らしさを感じている。
アイコンを変えたい、、絵が得意な人にイラストを書いてもらいたいなぁと考えています。サポートいただければアイコン作成の費用にかかるお金に割り当てたいと思ってます。