『空襲と文学』W.G.ゼーバルト|感想

-破壊の記憶を物語る-

 今回取り上げるのは、W.G.ゼーバルト『空襲と文学』である。この本を手に取ったきっかけは、先日プリーモ・レーヴィ『これが人間か アウシュビッツは終わらない』を読み、戦争に関する文章を読みたいと思っていたからだった。大学の授業も終わり、課題図書ではなく好きな本を読めるようになったこともあって、読むことに決めた。


 ゼーバルトは、ドイツ出身の作家である。写真を用いた、小説とも随筆とも言えるような独特の文体で知られている。今回取り上げる『空襲と文学』は、チューリヒ大学で行った「空襲と文学」についての講義録に加え、戦後のドイツ出身の作家3人を扱った文学論が収録されている。

 私たち日本人は、第二次世界大戦で日本が蒙った被害の大きさを知っている。日本のアメリカ、イギリスへの宣戦布告によって勃発した太平洋戦争は、アメリカにより8月6日に広島へ、8月9日に長崎へ原爆が投下された。続いて、8月9日には日ソ中立条約を破棄したソ連が、日本の同盟国である満州に侵攻した。これによって、日本は8月15日にポツダム宣言を受諾し、無条件降伏することとなった。
 日本は、戦争における原爆の被害を受けた世界で唯一の国であり、その恐ろしさを表現した作品が多く存在する。井伏鱒二『黒い雨』や大江健三郎『ヒロシマ・ノート』などの書籍から、『はだしのゲン』や『この世界の片隅に』などのアニメーションに至るまで、幅広く展開されている。また、原爆を投下された広島と長崎にはそれぞれ、広島平和記念資料館と長崎原爆資料館が建てられており、核兵器の恐怖や非人道性を伝えている。

 このように日本では、戦争で受けた被害の大きさを知る機会が多い。それでは、ドイツが第二次世界大戦で蒙った惨禍はどのようなものであったのか、知っている人がどれくらいいるだろうか。少なくとも、私は知らなかった。
 第二次世界大戦下のドイツで印象的な事件は、やはりユダヤ人の大量虐殺だろう。ヒトラー率いるナチスの政策によって、およそ600万にものぼるユダヤ人が強制収容所で殺害された。その一方でドイツは、1943年のハンブルク空襲や1945年のドレスデン爆撃で甚大な被害を受けている。しかし、その被害について、戦後のドイツではほとんど書かれなかった、とゼーバルトは指摘している。『空襲と文学』は、描かれることのなかったドイツの惨状に問題意識を持ったゼーバルトが、文学の観点から分析した評論である。

 私が読んでいて、ハンブルク空襲の被害で衝撃を受けた箇所がある。ゼーバルトは、その被害について、フリートリヒ・レックの日記から引用している。

 生き残った者のハンブルク脱出は、はやくも空襲当夜に始まった。…(中略)…フリートリヒ・レックは、…(中略)…そうした避難民四十人から五十人がオーバーバイエルン地方のある駅で列車に向って殺到した、と書いている。そのとき、ダンボール製の一個のトランクが「プラットフォームに落ち、はじけて中身が外に飛び出した。おもちゃ、爪切りセット、焦げた下着。そして最後に、焼けてミイラのように縮んだ一体の子どもの屍。半分気の触れたひとりの女が、わずか数日前まで恙なかった過去の生活の遺物として、持ち運んでいたものだった。」

『空襲と文学』p32

 なんと恐ろしい光景だろう。空襲の悲惨さを物語っている一説である。ハンブルク空襲では火災旋風が発生した。最大風速240km/h、気温800℃の旋風が街中を焼き尽くした。この空襲を体験した者、後に訪れてその被害を目の当たりにした者、いずれもまともな精神を保つことはままならなかっただろう。しかし、この被害について書いた文学はほとんどない。この理由について、ゼーバルトは次のように分析している。

人々は、当初まずは衝撃のあまり、あたかもなにごともなかったようにふるまうように決めたのだ。

『空襲と文学』p41

 人はあまりに衝撃的なものを見ると、それを心に植え付けまいとして、ある種の防御反応が働くのではないだろうか。この文章を読んだとき、大学の授業でプリーモ・レーヴィ『これが人間か アウシュビッツは終わらない』を扱った回の、ある学生の発言を思い出した。その学生は、アラブ文学を専攻しているという。彼は、アウシュビッツから生還したユダヤ人であるプリーモ・レーヴィが過去の体験を書き起こしたこの作品について、次のように述べた。

 「私はアラブ文学を専門に勉強しています。私たちがこの本を読めているのは、アウシュビッツを『わかりやすい悲劇』として認識しているからです。なぜなら、このような悲劇は私たちが想像しやすいものだからです。その一方で、世界では『わかりにくい悲劇』も起こっています。パレスチナがその例です。パレスチナの人々は、アウシュビッツのような場所で毎日一人ずつ殺される、というような環境に身を置かれています。そのパレスチナの問題を扱った作家に、ガッサーン・カナファーニーがいます。しかし、邦訳はほとんど出ていません。この理由として私は、あまりに悲惨で直視できないような出来事を文章に起こされても、理解することが出来ないから、であると考えています。また、そのような文章を読んだときに、受け入れたくないあまり拒否反応が出てしまうことも理由の一つでしょう。人は常軌を逸した想像をすることができません。ただ現在、世界の一部では、そのような理解を超えた境遇にいる人々が存在しているのです。」

 当時、ハンブルクにいた人々は、火災旋風が巻き起こっている尋常でない環境にいた。文字どおり「地獄」にいた人々は、凄惨な光景を目の当たりにして、防御反応が働いてしまったのだった。

 加えて、空襲の被害が書かれなかったのは、ドイツがユダヤ人迫害を行っていたことにも原因があるとゼーバルトは指摘している。

何百万人を収容所で殺害しあるいは過酷な使役の果てに死に至らしめたような国の民が、戦勝国にむかって、ドイツの都市破壊を命じた軍事的・政治的な理屈を説明せよとは言えなかったためだろう。また、…(中略)…明らかな狂気の沙汰に対してぶつけようのない憎悪を胸にためていたにしろ、空襲の罹災者のうち少なからぬ者が、空襲の猛火をしかるべき罰、逆らえぬ天罰であると感じていた可能性もある。当時、ナチスの新聞や帝国放送は、嗜虐的なテロ攻撃だの空の蛮族だのと相も変わらぬ甲高い調子で言い立てていたが、それ以外には、数年にわたった連合軍の破壊行動を非難する声があがったことはほとんどなかったという。

『空襲と文学』p20

 このような背景から戦後のドイツでは、空襲を題材とした作品がほとんどなかった。だからこそゼーバルトは、ドイツの小説家であるハンス・エーリヒ・ノサックを「当時ただひとり現実に眼にしたことをあたうるかぎり装飾を交えずに書き留めようとしたことは、疑いなくその功績である」と評価している。
 戦争の当事者にとって、己の精神を破壊された記憶を思い起こすことは苦痛を伴うのだろう。しかし、その記憶をなかったことにしてはいけない。人類の負の遺産として後世に伝えていかなくてはならない。
 未来に戦争の記憶を伝えていくということについて、先程触れた授業でもう一人印象に残る発言をした学生がいた。彼女は次のように述べた。

 「私は地元が広島です。幼い頃から原爆の被災地に住んでいる者として、戦争の記憶と深く関わってきました。3年前のニュースで印象に残っているものがあります。広島平和記念資料館から蝋人形を撤去する、というニュースです。原爆による被爆を再現したこの人形について、以前から賛否があったのは事実です。撤去に賛成する意見では、子どもに恐ろしすぎて見せられない、子どもと一緒に広島平和記念資料館に行きたいが蝋人形があるせいで行く事ができない、などがあります。撤去に反対する意見では、たとえ恐ろしいものであっても核兵器の残虐性を伝える上でなくてはならないものだ、実際はこの人形より恐ろしかったのだ、などがあります。私としては、確かにこの人形のせいで戦争の記憶に触れさせられないのは問題であると感じます。しかしだからといって、核兵器の恐ろしさを伝えてくれる人形を撤去する、つまり、戦争の記憶から逃げるということは、本当に子どもにとって良いことなのでしょうか。賛成と反対、どちらの意見にも一理あるからこそ、この問題について考えることは非常に難しいと感じています。」

 ここには、戦争を語り継いでいくことの難しさが表れている。語り継いでいく側と語り継がれる側の二つの問題だ。
 語り継いでいく側の問題は、ゼーバルドが指摘しているとおり、当事者が心裡に眠っている痛ましい記憶と向き合わなければならないということである。ここでは、強制収容所から生還したユダヤ人作家のジャン・アメリーを例に取る。ゼーバルトは、ジャン・アメリーについて論じたエッセイにおいて、犠牲者の想起することの苦しみを分析している。

想起すること―恐怖の瞬間のみならず、まがりなりにも平穏だったそれ以前の時代をも想起すること―が耐えがたいという問題は、迫害の犠牲者の精神状態に重くのしかかっている。…(中略)…犠牲者は凄まじいエネルギーでわが身が嘗めたことを記憶から締め出そうとするが、たいていの場合それに成功しない。…(中略)…犠牲者のなかでは記憶欠落の島がいくつもできるようになるが、かといってそれで本当に忘却し去れるのかといえば、そうではないのだ。むしろとりとめのない忘却と、記憶から追い出せずに繰り返し湧き上がってくる数々の心象とが混ざり合うようになる。それらの心象は、空っぽになってしまった過去のなかで、病的なものと紙一重のそこだけは異様に鮮明な記憶となって生きつづける。ぼんやりした死の不安、と同時にいつまでたっても迫りつづける死の不安にひたされた記憶を持つことの苦悩は、アメリーのエッセイにも生々しい。

『空襲と文学』p136,137

 以上は、迫害された犠牲者について述べた文章であるが、空襲の被害者のような瞬間的な恐怖を受けた人々にも当てはまるだろう。このように、語り継いでいく側は、忘れ去りたいと願っても忘れ去ることができない記憶を、自らの意志で思い起こさなければならないのである。これがどれほど困難なことであるかは、ジャン・アメリーやプリーモ・レーヴィが収容所から生還していながら、最終的に自死を決断したことからも窺うことが出来る。

 そして、語り継がれる側にも問題がある。広島平和記念資料館の蝋人形の件からもわかるとおり、当事者でない私たちが、戦争の記憶を身近に感じなければならないということである。人は皆、耐えがたい映像や文章に触れたとき、逃げ出したくなるのが普通の感覚だろう。語り継いでいく側が苦痛を伴う体験ならば、語り継がれる側も苦痛を伴うのは当たり前なのだ。
 また、近年は娯楽が増えてきて楽しい経験を沢山積むことができる。そのような世の中で、自ら進んで悲惨な記憶に触れようとする者は少ないのかもしれない。
 語り継がれる側の問題は、戦争の記憶を追体験することの難しさ、娯楽に溢れている現代社会、という二つの側面から分析することが出来る、と私は考えている。

 このように、未来へ戦争の記憶を伝えていく上での問題点を考えていると、一つの疑問が浮かびあがってくる。果てして戦争の記憶を語り継ぐことに意味があるのか、と。語り継いでいく側は、戦争の残酷性を発信し続けているにも関わらず、世界では戦争がなくなっていない。2022年には、ロシアがウクライナに侵攻を始めた。戦争の恐ろしさを伝え続けていても、戦争がなくなるどころか、新しく始まった地域があるのならば、その行為に何の意義があるのだろう。
 この疑問について、ゼーバルトはペーター・ヴァイス作品の分析の過程で、次のようにまとめている。

人類史における風土病のごとき倒錯した残虐を描写するにあたっては、つねに希望が伴っているものだ。恐怖の章を書くのはこれが最後であり、よりよい時代の後裔は天国で浄福にあずかる魂を見るかのように過去をふり返ってほしい、との希望である。…(中略)…右にまとめたような残虐を表現する目的は、ついぞ果たされなかったことを私たちは知っている。果たされることはおそらくないだろう。なぜなら人間という類は、自分の所業から学ぶことができないのだから。

『空襲と文学』p170

 人間は、「自分の所業から学ぶことができない」生き物である。どんなに苦しい体験を語り継いでいっても、戦争は繰り返される。確かに、語り継いでいくことに意味はないのかもしれない。しかし、私はあくまでも語り継いでいくことには意味がある、と信じたい。そして、その方法の一つとして文学が存在している、と信じたい。
 文学は、語り手を通じて登場人物が体験した出来事を追体験できる、唯一の媒体である。彼らが遭遇する出来事に対して、どのように感じたのか私たちは読み取ることが出来る。そして、戦争の当事者でない私たちであっても、文学というフィルターを通せば、戦争と向き合うことが可能になる。文学は、物質的な代わりになることはない。戦争で負った肉体の傷を癒やす事は出来ないし、戦地から逃げるための移動手段になることも出来ない。しかし、文学を通じて得た経験は、間違いなく物事に対する考え方に影響を与える。
 少なくとも、私は『空襲と文学』を読んで、ドイツが蒙った被害を学ぶことが出来た。ハンブルク空襲による惨状がいかにむごたらしいものであるかを学ぶことが出来た。ジャン・アメリーの例から、迫害によって心に受けた傷は死ぬまで癒えることがないということを学ぶことが出来た。そして、戦争がいかに恐ろしいものであるかを改めて学ぶことが出来た。
 このように、文学は私に新しい考えを吹き込んでくれる。私一人だけでなく、文学を読んだ多くの人々が同じような体験をすれば、世界は今より良い方向に向っていくと思いたいものだ(とは言いつつ、やはり「人間という類は、自分の所業から学ぶことができない」ので難しいと感じているが)。

 『空襲と文学』は、加害者とされてきたドイツにも被害者という観点がある、ということを論じている。ゼーバルトの戦争に対するまなざしは、私たちに新しい視点を与えてくれる。


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