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『泥人形の話』

© 2001 Studio Ghibli・NDDTM

さて、想像してみてください。ここに泥人形があります。埴輪か、オクサレ様などがイメージに近いでしょうか。
ボロっちくて、ところどころ欠けていて、中は空っぽで、しかもまだ乾いていないところもあってドロドロしてます。汚いです。
この泥人形にメイクをして、かわいい服を着せて

無償の愛を注いで

家族の一員として見返りなく養い、育てるって

どう思う?


日記より

馬鹿らしいでしょ?
そんなことする奴の気が知れない。
こんなのに手間暇かけて、
大事にして、なんになる。
そう思うでしょ。

この泥人形が、

私の自己認識でした。


人前、ムリ。人混み、ムリ。おしゃれ、ムリ。自己主張、ムリ。女の子らしいこと、ムリ。

なんでかわかんないけど、無性に恥ずかしいし居た堪れない。いつだって、ひどく場違いなところに存在している気がした。存在自体が恥ずかしかった。

ただ、勉強ができることと、努力をしていたことと、その点数と、優等生とか委員長とか成績が学年何位とかの肩書とか評価とか。
そういうものが私をコーティングして、なんとか人間の形に作ってくれていた。
それがある限り生きていいような気がしていたし、それで人間である対価を払っているような感じがして安心していた。

でもその裏では、常に罪悪感と焦燥と、謎の圧迫感に潰されそうで。泣いたりリストカットをしたり、希死念慮に苛まれたり。苦しかった。
大した人間でもないどころか、私は本当は×××なのに。人間のフリをしてみんなを騙している。うそつき。
生まれてきてごめんなさい。生きていてごめんなさい。なぜか、そんな自責の念に常に苛まれていた。


日記より

この自己評価のクソさ、今(大学時代)でもまだよくあって。基本的に気分が落ちていると自分の容姿をクリーチャーだと思っているので、

大学生になって一応化粧して髪を巻くようになってからは、ふと外で鏡見たときに「あ!? ちゃんと人間だ!?」って驚きと安心が生まれるようになった。


日記より

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という、オチのない、数年前の日記。

今現在は自分のことほとんどそう思わなくなった。だいぶ楽になれたと思います。

それにしても驚いたのが、この日記を低空飛行netのメンバーさんにちらと見せたとき、少なくともふたりが同じような感覚を持っている/または持っていたとおっしゃったこと。

本当に、なんなんだろうな。あの、自分の存在がひどく醜く汚く感じる、自己否定の感情。

私が初めて心療内科にかかったのは高校生の時で、そのとき病院の先生に「社交不安障害って知ってる?」と言われ、パンフレットを渡されたのを覚えている。
そして、振り返ると高校時代の私はそれよりは明らかに鬱っぽくて、どちらかというと小学校のときくらいが一番その、社交不安障害というか、あがり症らしい症状が強かったように思う。
(自分の存在を恥じるような苦しさが強かった時期を順に並べると、高校>>>小学校>>中学校>>大学、くらいだったと思う。消えたかったなあ。)

自己認識が泥のように低くなりすぎてしまうのと、精神疾患は果たして関係あるのか。
でも、病気だからそうなるというよりは、そういう性格だったからとか、内在化する安心を親に与えてもらえなかったとか、自身を挫かれ続けたとか、

不安障害や鬱よりは、そういう愛着障害とか自己肯定感とかそのへんの話なんじゃないかなあとかも考える。
(それについては、また今度深く考えようと思います。)

正直言うと、今の自分にはかつての自分のそういう苦しいときの感情は思い出せない。あくまで知識として、という感覚になっている。
それでも、かつての自分が沈んでいた淀んだ水底からの景色を綴ることで、誰かに寄り添えたらと。そう思い、日記を引っ張り出しました。

本日はここまで。
お読みいただきありがとうございました。

ゆる

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