ひきこもり・メンタル系の当事者会〈低空飛行net〉から生まれた書きものサークルです。表現したい、発信したい、そんな何かを載せられるnote。物好きなメンバーが気の向くままに更新中。
一部の記事を非公開(=下書きに戻す)にしました。 人生、不安がってる時間は無駄だってわかってわかっていても、なかなか難しい。 二十年ぶりに魔女の宅急便を観返したい気持ち。
前回のノートを描いたとき、それはそれは心が荒んでいた。 一、二週間にわたって息苦しさのようなものがあった。 最近じゃほとんどなくなった、「帰宅してから自分の今日の言動を振り返ってクソほど反省し死にたくなる消えたくなるタイム」がじわじわ復活してきたり、 いつもだったら「まあ、自分に変えられないこと手をつけたってしゃーないし」という適度な無関心、自他境界の壁が揺らいでしまったりもしていた。 先日の就寝前なんかは、家のベランダから落ちていく自分のイメージが頭から離れず、「やば
母はいつも疲れていた。 子ども、特に私に対して、今で言うモラハラをする傾向にあった。 うちでは、「勉強に必要なものは親が買うから言いなさい」という方針だった。 とてもいいことだ。当たり前のことかもしれない。すべての子どもが得られるわけではない「当たり前」だ。私は恵まれていたと言える。 でも、いちいち申告するのは少し息苦しくて、私はある日、お小遣いでコンビニのカッターナイフとペンを買った。 紙をスーッと切るのも、自分で選んだペンでぐりぐりと字を書くのも、ささやかながら楽しか
わりと元気になってきた。 人間関係で色々あって、消耗していたこの所。 その件についても書いて昇華した方が……と思いつつ、書き物は義務感のようなものに押されながら生むものではないと思い直し、パソコンを閉じました。 参ってはいたものの、関西に東京に遊びに行ったり、B型事業所の見学体験を済ませて受給者証の申請までいったりと、動けてはいました。ヨシ! 今後とも、 書きたくなったら、ゆるゆると。
もともとゆるくやってたけど、経験則で「これはやばい」を察知したのでしばらく意識して休みます。ゆるくいこう。
※著者:三森みさ様へお問い合わせの上、見出し画像への使用許可をいただいております。 前回予告した内容とは異なりますが、 「過去の傷やトラウマ持ちのみんな、これ読んでくれ〜〜!!!!」 という気持ちで宣伝させていただきます。 コミックエッセイの形をとっているので難しいこと考えず読みやすく、 しかもなんと、無料で読めます。Amazon Kindleか、そのままWEBで読めます。 Twitter(X)でも読めます!が、個人的には本にまとめられてる方が続きを探す手間が省けるし集
すべての家事の中で皿洗いがいっちゃん嫌だ。やりたくない。 皿洗い自体が不得手なわけではない。ちゃんと洗える。 ただ、手が濡れて、食べ物の汚れに触れるという作業がどうにも苦手。 とはいえほぼ毎食自炊をして都度皿を洗っていた時期もあれば、飲食店やカラオケのバイトで洗い物をやっていた間は「何も考えずできる作業」のひとつになって、バイト先の余韻でさっさと洗うこともできた。 でもこの一年、ほんとダメだ。 家にある食器や調理器具の九割がシンクで洗われないまま九龍城になっている。総菜の
先日のnoteから若干つながった記事になる。 突然だが、私は高校生くらいまで「人を嫌いになっちゃいけない」と思っていた。 思い込んでいた。 人を嫌いになるのは悪いことだ。誰だって理解する努力をしなければ。そんなふうに考えていた。 平和主義(この言葉も適切ではないかも)というよりは、「私だって十分罪深くゴミみたいな存在なのだから、人を嫌いになるなんて『贅沢』をする資格はない」とでもいうような心理だったように思う。 以前に別のnoteで書いたが、自己認識がヒト以下の泥人形だ
てめぇの脳を割りたい。 某文学作品のタイトルをもじって自分の今を表すならそんな感じ。そう思うくらい《てめぇ(自分)》の頭が痛いし、そう思うくらい《てめぇ(お前)》の脳を食って血肉としたい。 今日、図書館で本を借りた。それだけのこと、たかがそんなこと、と思われるかもしれないが私にとっては大きいことだった。 一年前だったか二年前だったか定かではないが、あまりにも家から出れなく、文章も書けなかったとき、書籍化ネットノベルの原作を小説投稿サイトで流し読みするだけでは思考力が鈍っ
たまに見る夢。 高校に入り直す夢。 『やり直している』夢。 夢の中の私は、これが「やり直し」だと自覚していることもあれば、完全に人生一週目のつもりでいることもある。 自覚しているときは、夢の中で自分を鬱に追い込んだ同級生にしっかり怒って反論していたり、最後まで辞めたくても辞められなかった部活をさっさと辞めたりしている。 やり直さなくては、今の頭と体力でもついていけるかな、頑張れるかな、と、どこか現実での自分のスペックや肉体年齢を認識したような心配をしていることも。
(帰省に関する記事はまた後日、と書きましたが、筆が乗って書き上がったので投稿します。) *** 二年ほど前、曾祖父の葬儀の日。伯母と私と妹で、近くのコンビニにおかしを買いに行った。集まった親戚たちへのお茶請けだ。田舎なのと、曾祖父に子どもが多いのもあってサマーウォーズ並みに親戚が多い。当然、買わなければいけないものも多くなる。 結構な量を買ったが誰もエコバッグは持っていなかった。大きいレジ袋を購入した。そのとき、妹がてきぱきと袋を広げ、店員さんがバーコードを読み取った
なんのひねりもなくタイトルのまんま。 スーパーに買い物に行った帰り、家に着く直前でエコバッグに差していたはずの長ネギがないことに気付いた。 よりによって今日は雷がゴロゴロ鳴るような雨天で、自転車を諦め徒歩だった。体感労力は倍。でも、おうどんにネギ入れたいしなあ……せっかく買ったしなあ……と引き返し、スーパーへの道を半分ほど行ったところで無事に拾った。 無事回収できたのと、一応Twitterで「ネギ 落ちてた」でサーチして自分が落としたものは投稿されてなかったのを確認したの
現代人の例に漏れず、私はYouTubeをよく見る。 好きなYouTuberさんも数多くいる。 その中のあるおひとりには、20歳近く歳の離れた弟さんがいて、弟さんは赤ちゃんのときからちょくちょく動画に登場していた。 お兄さんと弟さんは、当然と言えばそうだけれど面立ちがよく似ている。お兄さんが赤ちゃんのときもこんな感じだったんだろう、と想像に容易いくらい。 弟さんが笑顔でおもちゃを振ったり、手を叩いたり、名前を呼ばれて手を挙げたりする姿に、 お兄さんが、「かわいいねぇ〜」
さて、想像してみてください。ここに泥人形があります。埴輪か、オクサレ様などがイメージに近いでしょうか。 ボロっちくて、ところどころ欠けていて、中は空っぽで、しかもまだ乾いていないところもあってドロドロしてます。汚いです。 この泥人形にメイクをして、かわいい服を着せて 無償の愛を注いで 家族の一員として見返りなく養い、育てるって どう思う? 馬鹿らしいでしょ? そんなことする奴の気が知れない。 こんなのに手間暇かけて、 大事にして、なんになる。 そう思うでしょ。 この
この数ヶ月、とても調子がいい。 驚くほどいい。 前もどこかで書いたか言ったが、今までの人生で今がいちばん楽、まである。 でも、ふとしたとき、泥のように動けなくなる自分を思い出す。 「あー、たぶんまたいつか、アレが来るんだろうな」 と、どこかで常に漠然と構えている。ならないようにはしたいが、なるときはなる。仕方ない。 なんなら、去年の今頃は本当に絶不調だった。今まででいちばんの絶不調だった。 YouTubeも見れない。音楽も聞けない。本も読めない。寝るしかなかった。 料理が
電子レンジの中でお茶こぼした。まあそんなこともあるやろ。 PDF作ってる途中にパソコンが見たことない固まり方して原稿落とした。まあそんなこともあるやろ。 別に世界滅びんし。 「まあそんなこともあるやろ」のスタンスでだいぶ楽になったような気もする。 いや、そもそもメンタルが安定して楽になったから「まあそんなこともあるやろ」になれたのか。 それはわからないけど、まあええか。という日記です。 ゆる