「さして重要ではない日々のことについて(ラヴェルを聞いて)」(抄)
単調に刻まれる、ポタ、ポタ、ポタ……と、閉め切っていない蛇口から垂れた水が、洗わずに放置された茶碗の水面に落ち、その表面張力というか、そもそも七割程度にしか茶碗に水が溜まっていないのか、シンクに水が垂れるということはなかったのだが、ポタ、ポタ、ポタ……と、水が跳ねる音はえんえんとしていて、やがてザ、ザァ、と短いノイズに変る。
ゆるやかなまどろみ、テレビを消さずに数時間眠っていた。床に何も敷かず、土の中で丸まっているクワガタのこどもみたく、背は弧を描いていた。背から腕が一対、にょき、と生え――ようとしていた。指先が、未だ六本しか現れていない……、背には痒みがある。
眠るまえ、背は、弧を描いている、またその弧はあかく、腫れあがっていた。夕食後、食器類を下げたので――つまりまだ洗っていないのだが、皿が二枚、コップがひとつ、箸が一膳、積まれている。ここから見ると、それが都会のビル群のひとつにあるような、不格好な雑居ビルみたい――コップが煙突みたく突き出、だったら二枚の皿は何なのか。
○
ベランダに鳩が来るようになり一週間が経とうとしている。
――鳩が来ると厄介ダヨ。
と、あれだけ言われていたのに、ついに来てしまったのである。小枝や、枯れ葉が溜まっているなとは思っていたが、ただ、風の強い日、雨の降る日が続いていたからただの偶然だろう、と考えていた。
また、ここは三階である。地上から十分な高さがあり、ごきぶりを部屋で見たことがない。三階だというのに、小枝が入ってくるということはあるのだろうか。
それに、飴の包み紙が数枚、落ちているのを発見した。桃、葡萄、苺、とさまざまであるが、しかし厭なことである。隣人のしわざであるか、それとも、鳩の所業か。
○
――あのう、こんにちは、隣の、三〇二の……、Iといいますが。
――はい、はい、なんでしょうか。
――うちのベランダにゴミが……飴の包み紙が。
――はあ、しかし私、ベランダに出ないですけれど。
困ったものである。いったいどこから来た飴の包み紙なのか、無からあらわれたのか。
――あの、それ鳩ですよ、鳩。
――……やっぱり、そうでしょうか。
――ええ……。うちも、やられたことが、ありますよ……
――ええ……
思いがけぬ合致があった。鳩である確証を得、すぐさま部屋に戻った。
インターネットで見つけた、鳩駆除業者は、申し込むとすぐ来てくれるようだった。しかし鳩を駆除してしまったら、その鳩は、どうなってしまうのでしょうか――
――ええ、ええ、ほかに巣、つくると思いますよ、鳩は、ひじょうにアタマがいいですから。
――そうなのですか……わたしてっきりアタマの悪い生き物だと思っていました……
――うん。悪いよ、でも戻ってくるということに関していえば、一級品ですよ……
いつか、こんな記事を見たことがある――鳩による伝達、遠く離れた陣地に、鳩たちが数百のマイクロフィルム化したメッセージを背負わせて、高いところから放つ。第一次大戦の、仏軍での。軍鳩と言うらしい。鳩の帰巣能力で、案外うまくいくんだよ。
――へえ……。案外すごいんですね。
――ハハハ、スパイでもない限り、今は使わないでしょう。
○
さっそく鳩駆除業者がやってきて、ベランダに向った。玄関のドアから直線状にベランダのドアがあり――家賃の安い、ワンルームゆえのことだが、この物件のじつに気に入っているところのひとつだ。
――鳩はね、イタイメにあえば、もう来ないですよ……
と、とげの付いたマットをベランダ一帯に敷き詰めると、シュゥ、シュゥ、と液体を撒き始めた。なんですか、それは――
――これはねえ、すごい苦いんですよ、舐めると、気絶するくらい。
――ええ。
さすがに鳩が可哀そうな気になったのだが、ベランダの隅に飴の包み紙が目に入った。包み紙の裏の銀が厭に光りながら、短くザ、ザァ、と風に擦れて音が鳴る。
――これで、きっともう来ないです……一度来るとは思いますが。
――ええ、ええ、ありがとうございました……
裸の一万円をわたすと、鳩駆除業者は帰っていった。
(文責:壹岐)
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