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名もなき料理たちの墓(キノコはわたしたちの内臓ではない!)

今回のnoteは壹岐によるエッセイです。
料理が内包するものについて

 ポトフを作る。にんにくとウインナーを炒めた鍋に、適当な野菜を入れ、蒸し焼きにする。玉葱、きゃべつ、人参、じゃが芋、あとはキノコを数種類、しめじ、えりんぎ、まいたけ、えのき。キノコは1回じゃ食べきれないから、たいていの場合、冷蔵庫にいる。
 ふたをして、しばし待つ。蒸気が立ってきて、いいかおりがする。野菜だけだとは思えない、深みのある、甘い香りがする。ところどころ茶色く色づいた野菜を、鍋底から掘り起こしては、焼ける面が変化して、においがふたたび立ってくる。

(キノコのにおいだ、これは! 野菜だけでも十分だというのに、なんてこう、キノコというのはにおいがこんなにも詰まっているの? キノコって、こんなにも軽いのに、爆発?
 キノコのにおいの奥ゆかしさは愛。)

 土井善晴の名著『一汁一菜でよいという提案』(新潮文庫)において、「ハレ」の料理と「ケ」の料理という概念が登場する。特別な料理と日常の料理。しかし「ハレ」化するいまの、というか「ハレ」化をもとめている風潮、それによって本来は「ケ」でよいはずの日に「ハレ」が侵入してきてしまって(否定的な意味ではないけど)毎日が「ハレ」であるかのような、基準が「ハレ」になっている感覚が、たしかにわたしには存在する。
 一汁一菜でよいということ、ごはんとお味噌汁と香の物。これを基本単位とすること。料理を継続すること。疲れてはいけない……。

 名前のない料理がたしかに存在するような気がいつもしている。鶏ももを煮た料理。煮もので片づけてしまえばそれまでだけど、固有名を持たない料理には、なにかえたいの知れない愛おしさがある。竹輪を甘辛く炊いたやつ。よくわからない海藻を炒めたやつ。知らん名前の野菜のサラダ。
 あとは、ずぼらな料理にあるやさしさ。あぶらげを焼いただけ。いろんな野菜がごろごろ入ってる炒め物。
 そういう料理をみんなが食べて育つ。いづれ、そこに帰ってゆく。「簡単レシピ」とうたっているものはたいてい、家庭料理の延長線、または変奏のようなもの。みんな、無意識のうちに、家庭料理に帰っていくのかもしれない。

(ハイツムコリッタの山田の暮し。ひとりかふたりで白米と、汁物と香の物、塩辛を食べる。溝口親子がすき焼きを食べるとき。すき焼きは圧倒的に「ハレ」の料理であり、南家も山田・島田の勢ぞろいで大団円のような雰囲気がある。そのまえに、死んだはずのおばあさんを見た山田は、「ハレ」が神様のためにあるということを象徴しているようだ――)

 ていねいな生活がすてき、といったSNSにあがる写真を見て吐いてしまう。まったく散らかっていない部屋の押し入れに詰まっている宇宙。

 ぬか床をかき混ぜるときの奇妙な感覚。なにか、「ワンダー」が紛れていてもおかしくないのだ……、人参だ、大根だ、胡瓜だ、看板だ、茄子だ、フラスコだ、ピカイア・クックソニアの屍骸が、ゆたかなぬか床を育む。香の物は「ハレ」でもあり「ケ」でもある。

 いつでも漬物が1種類あれば、冷蔵庫の中の時間は豊かである。

 お味噌汁は何でもありだという土井先生の論のおもしろいところ、水と味噌と出汁。味噌は発酵物であり、その深い年月の賜物、時間・歴史の内包。出汁をとる乾物の、停止された時間を抱え込んでいる感覚、それが水にしみ出てゆく。何を入れてもなんかいい感じになる、ベース味噌汁の、その深さ故に成立するお味噌汁論である。
 それに香の物が付く。漬け物は時間の内包であるから、そのお膳の上に構築される時間は、準備時間以外の、歴史/場所/時間が広がっている。一汁一菜に慣れていくほかない。

 最近読んだ本と、好きな本を以下に。

(文責:壹岐)



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