いろんな家、わくわく

コロナ、コロナ、コロナ、嗚呼。引きこもって早くも1ヶ月が経ちスーパーに行くのと早朝の散歩が唯一の外出。こんなこと今までに無かったから少しのことが喜ばしく、ものすごく幸せに感じる。

引きこもりすぎてしんどくなるが、案外ちょっとでも散歩したり階段使ったり筋トレしたり(正直にいうと筋トレと呼べるほどストイックではない)することで元気になれると分かった。あとは会話、これは欠かせないと確信した。

しんどくなる原因は、しんどくなろうとする怠慢な私の思惑に倣っているだけであった。

生きるとは単純で小難しい、ね。


散歩が好きと言いつつ、忙しくなると散歩なんて全くせず用が済んだら颯爽と帰宅するロボットと化す。

だからこそ、こういう何もできないけど何にも時間を使える今、散歩が身に染みる。

散歩をする時、身近に自然は少なく家ばかり。それを良いことにひたすら色んな建物、店、家を見ながら歩く。

身近にありながら、それぞれの日常が同じ時の中で流れていると思うと恐ろしく、興味深くある。高層マンションなんぞ遠目から見るとひしめき合うストーリーの威圧感に気持ち悪くなる時期があったくらいだ。今は意識すると、気持ち浮つく程度だが。

とんでもなく大きい家を見ては、掃除はどうやってするのか何分かかってするのか、日に分けてこの部屋〜などと区分しているのか、それともお掃除さんがいるのか、たくさん湧き出る。

明らかな手入れ不足の古民家を見ては、どんな時が経って荒れていったのか、空き巣がすぐ入れるだろう窓は直さなくていいくらい家庭が崩壊しているのか、むしろ荒らして欲しいくらいなのか、この花綺麗だけどジャングルの様だな(後にジャスミンと知る)とか、

それぞれの間取りを想像してみたり、そこが自分の家としたら〜と仮定をしてみる。

思わず立ち止まってみたりしたくなるけど、変質者になりかねない。そして帰宅するに時間がかかりすぎて散歩にならない、

ゆっくりと歩く。

視界に入って次の面白そうな情報が入ってくるまで、妄想を膨らます連続をしている。そうやって歩くから建物や気になる場所は覚えているが、中々細い入り組んだ道は覚えない。

忙しい時は一生懸命に駅や目的地へ向かうので道は覚えるのだが(余裕を持って家を出るのだが十分間に合うと分かっていても万が一を考えて急ぐ癖がある)

だからこういう時間は、田舎に住む祖父母の家でやることなくてウロウロ散歩をして時間潰しをした昔に似た感覚である。

幼い頃は迷子になって帰れなくなる不安でいっぱいで来た道を必死に覚えたものだ。今思えばそんなもの数分、数十分うろついたくらい、可愛らしく小さな範囲だった。あぁ大人になったな、と思う。なんとも言えない気持ち。


まとめ

世の中は相変わらず目まぐるしいから、せめて心は豊かに居たいものですね。(じんわり湧き出た汗が少し鬱陶しかったけど、それも今は許しちゃおー)