「自分に愛を与えること」についてのモノローグ(後編)

毎月恒例・オープンダイアローグ夫婦の公開ダイアローグ、今回は夫・ふゆひこの自動思考(モノローグ)を妻・けいこさんが傾聴する形になりました。前編はこちら

この記事はメルマガ「おうちの人間カンケイについて」(月3回発行)の10月分を再編集したものです。私たちは日常的なダイアローグの他に、メルマガ用に毎月1回テーマを決めてダイアローグしています。メルマガ登録はこちらです。

自分に愛を与えていないから他人に厳しい

(細字:ふゆひこ)またちょっと話飛ぶかもですけど、最近「相談支援事業所」ってのを作ったんですよ。

昔やってたソーシャルワーカーの仕事を”ダイアローグベース”というか、対話的なマインドで対話的にやれたらいいなと思ってやってるんですけど・・・何て言うんでしょうね・・・苦労してることがあって。

私はいわゆる「当事者」とかご家族の話はめっちゃ対話的に聴くんだけど、それ以外の人の話をちゃんと聴けない自分に苦労していて・・・本当に10月1日に開業してまだ一週間ですけど、すごい苦労していて、昨日とか特にしんどく・・・今朝だいぶ深く自分でセラピーしたり考えたりしたんですけど・・・その、「他人に厳しい」んですよ、私。

なりたかさん(※茨城で対話実践をしている友人)が撮ってくれた動画でも言いましたけど、自分にも厳しいし他人にも厳しいんですよ。きっとこれ、自分に愛を与えていないから他人に厳しいんですよね。

何とか頑張って、当事者とかご家族とか、いわゆる「クライエント」と呼ばれる人たちに関しては優しくできるようになってきたんですけど・・・ああでも「家族」とかもね、昔はちょっとまだ自分の傷がぜんぜん癒えてないときは、自分の母や父を投影してちょっと厳しくあたってたなと思うんです・・・最近だいぶ緩和されてきてて、今度はね、苦労しているのはクライエント以外の人たちに対してなんですよね。他の専門家とか、社会システムとかに対して。

ちゃんとできているはず、できていなければおかしい、みたいな。そういう人たちの、できてない部分とか、私から見て”甘い”って言うんでしょうか、そんなような部分、勉強してないように見える部分とかに私はすごい厳しいなと思っていて。そんなん私自身にもたくさんあるんで、完全に”ブーメラン”なんですけど・・・。でも何かそういうすごい厳しい考えが頭の中に起きるんですよ・・・。それも私自身が自分に愛を与えていないからなんですよね。

自分に愛を与えることができないと、職業生活のいろんなところで困ってくるわけです。健康面や夫婦生活でもそうですけど、職業生活でも、例えば後輩に厳しくあたるとか、同僚に厳しくあたるとか、同業他社に厳しかったりとか・・・。

人に厳しくあたるときって、自分も厳しくされてるんですよね。他者や、社会や、自分自身から。要するにですね、自分のことを、相模原の犯人が被害者を見てるのと同じ目で見ているんです。私自身の中にも相模原の犯人と同じ価値観が刷り込まれていて、その価値観でもって自分を裁いているんです。役に立っているかどうか。生きていていいかどうか。

でもね、そんなことは、生きていていいかどうかに関係がないんです。そもそも「生きていていいかどうか」ということは、考える必要がないんです。問題は、それを疑ってしまいやすい社会に生きていたり、疑ってしまいやすいコミュニケーションをしていたりすることなんだと思います。

だから、自分に愛を与えるっていうのちゃんとやらんといかんなと思うんですよね。その大事さみたいなことにようやく気がついたよねっていう話なんですけど。ただ、そのやり方が私にはいまいち分かりません、っていうことで。

もう安全な「いま」に到達する

ただ、「本当はやりたくてやってるんじゃない、他者にとっての最適化を実現してあげるために搾取されること」とかを、頑張って止めてみる。

それをやらないこともけっこう恐怖なんですけど、やらないとどうなったかというと、今までは怒られたりしてきたんですけど、私は「エクスポージャー」と呼んでいますが、そんな恐怖に一回向き合って、耐えて「やらない」をやってみると、「やらなくても大丈夫な世界」へと開けていくんですよ。

それが「いま」っていうことなんですけど。怖いことが起きた「過去」じゃなくて。もう安全な「いま」に到達するって、そういうことなんですけど。

あの、今日おうちを出る前にけいこさんが私に話しかけてきたんだけど、私は聴くのを拒否しましたね。

本当に「聴く」ってすごいエネルギーがいるんですけど、自分がそのエネルギーをいま他者に振り向けられるかどうかっていうのを、これまでは、自分自身に尋ねる前に、もう「話されたら聴くんだ」「相手にエネルギーを割いてあげるしかないんだ」っていうふうに行動してきたわけですけど、今日はちょっと自分に訊ねたときに「ちょっといま他人に振り向けるエネルギーがない、しんどい」という判断をしたというか、自分の肉体とか気持ちがそのように言っていたので、「ごめんなさい」と、聴くのをお断りした。「あらためてお話する予約を入れてください」って言って。

まだ「自分に愛を与える」とまではいかないけど、「自分を後回しにしない」っていうことなのかなと思って。自分を「最恵国待遇」するというか。

「支援者から対話者へ」

ちょっとまた話が跳ぶというか、再びつながるというか、するんですけど、私から見たときに、「するべき人がするべきことをしていないように見えるとき」って、それはその人が甘いとかだらしないとかではなくって、彼らが何か別の脅威にさらされているときなんですよ。

他者より自分を守らなきゃいけないとか、そんなように感じられる脅威とか恐怖を与えられたり、プレッシャーにさらされているときに、人は他者より自分を優先する行動をとるわけですよね。

自分が愛されてないとき。肯定されていないとき。

だから、またそちらの不安とかプレッシャーとかのケアをしてあげないと、人も社会も機能できないんですよ、きっと。他者に愛を向けられないんですよ。

そのときに、脅威やプレッシャーにさらされている人に「ちゃんとやりなさいよ」「俺はちゃんとやっているのに」とか言って更なるプレッシャーをかけるんじゃなくて、「そちらのご心配は何ですか」ってまず聴いてあげないといけないっていうことなんだよね、って思って。

それが、なんか「支援者から対話者へ」って最近言ってるけど、そういうことなんだと思うんだよね。「クライエント/専門家」みたいな区別を作らず・・・それは「優しくされるべき人/されなくてもよい人」の区別を作ることだからさ、目の前の人が誰であろうと話を聴いて、心配を・・・なくしてあげることはできないけど、その心配について一緒に採り上げるっていう。

私自身が自分に対して「ちゃんとやれよ」「プロだろ」みたいな、そういう厳しさを要求して、要するに自分に絶えずダメ出しをして否定して生きてきたわけだけど、それが他者への厳しさの原因になっちゃってるので、だからさ自分を愛することができたときに、他者にも「ご心配ないですか」って言って、「そうそういうふうな選択とか判断をされる背景に、どんなことがあったんですか」とかっていうようなことをできるようになればいいのかなと思って、今朝、「ああ、そうか」と思ったんですね。

そしたら電話がかかってきて、ちょっとやってみたんですよ。その気づきをそのまま、さっそく頑張ってやってみて、普段なら厳しい目をを向けてしまうような内容の相手の話を、ちょっと聴いてみたりとかしたら、割と状況が開けたので、やっぱり課されているのはそういうチャレンジなのかなと思って。

ポリフォニー+ポリリズム

だから、その根本ね、やっぱり「自分を愛する」「自分に余裕を作る」「自分を最優先にする」っていうことがまず課題で、その時に「ポリリズム」っていう単語を今日は思いついたんです。オープンダイアローグの界隈で「ポリフォニー」という概念を大切にするんですけど、それとひっかけて。

先々月のダイアローグで「二人のスピード感」の話をしたんですけれども、ちょっと話が戻りますが、動物どうしって「ポリリズム」だと思うんですよ。

「ポリリズム」って、互いに何拍子かが異なるんですけど、個体個体で固有の拍子がある、それを先々月はそれぞれの「スピード感」って呼んで、そのすり合わせ方とか、異なるということをどう扱うかみたいな話をしたと思うんですけど。

ただ、何小節かに一回、ポンと合うんですよ。例えば8拍子と6拍子とかって、拍子が異なるんですけど、何小節かに一回、最小公倍数?みたいなところで合うんですよね。

どっちかに合わせようとかすると、どっちかがきついんですよ。だから、個体ごとに別のリズム、ポリリズムの音楽でいいんですよ。対話的な関係って、ポリフォニー+ポリリズム、ポリタイムでいいんです。

だから、「いかに自分のリズムを保つか」っていうことで、だから最近はけいこさんと食事を共にしないことが多くって、それはお腹が空くタイミングも全然違うし、もちろん食べる量も違うし食べたいものも違うので、その「食事を一緒にする」っていうのはまあ、なんと言うか「親交を深める」って意味あるかもしれないけど、栄養補給とかっていう面では食事は別々の方が理に適っているなって気もしてきていて。別の個体なので、他の個体のタイミングに合わせてごはんを食べるのって、自分に対して愛を与えていないんじゃないかって気がするんですよね。

今の職場では kahvitauko (フィンランド語で「コーヒータイム」)を作って、「Ska vi fika?」(スウェーデン語で「お茶にしませんか?」)って言ってコーヒーにするんですけど、私は先日のコーヒータイムに親子丼を食べました(笑)。

その結果ばんごはんを食べなかったんですけど、でもそっちの方がよかったんです。その日は3時半ぐらいに体調が悪くなったように感じられて、「あ、これお腹が空いてるのかも」と思って、コーヒータイムだけど自分を優先してごはんを食べました。そしたら体調が回復したんです。

個体としての自分の自然さみたいなのに正直になるってことが、まずフィジカルに大事なのかなと思って。フィジカルが楽なだけで結構楽になるので、メンタルも。

裁量がある人は世の中を変えることができる

ただ、多分これは私がいま一応社長だからできることであって、勤め人だったときって無理なんですよね。コーヒータイムがまずないし、あっても一人だけ親子丼とかあり得ないわけですよね、他人に合わせてると。

どうして他の個体に合わせなきゃいけなかって、「生産性」の問題があるからだと思うんです。8時間労働ってきっと工場労働をベースに作られてると思うんですけど、それは生産量を計算できないといけないからですよね。

ただ、医療福祉みたいな対人サービスにもなんかその工場的な働き方が適用されているので、私はすごいナンセンスだと思っていて。対人サービスって8時間連続して働く必要ないし、休憩が1時間でもおかしいと私は思ってるし。感情労働しながら自分のメンタルヘルスを保たなきゃいけないわけだから。肉体疲労とは異なるよね。

私らは今いちおう2人とも社長(2人だけで作った合同会社の、2人とも代表社員)なので、働き方を自分で決められたよね。相談支援事業所は週4だけ営業で、水曜日休みにして、毎日ちゃんと kahvitauko をとります。コーヒータイムに親子丼を食べても誰も何も言わない企業文化だし、お昼寝をしてもいいです。

裁量がある人がね、世の中を変えることができるのだと思います。少しでも裁量がある人は、その範囲内でいいから、ナンセンスなこと、”誰得”なことをどんどん止めていったらいいと思うんですよね。

いろんなことをつなぎながら話したんですけど、「自分を愛する」「自分に愛を与える」って「そうだよすごい大事だよ」っていうことなんですけど、今日もこうして IKEA に出かける前にけいこさんが晩御飯のおかずを作ってくれたんですよ。

でも今日、晩御飯に私がそれを食べるだろうかっていうのはわかんなくって。以前だと「食べなきゃ」「体調やタイミング的にそんなに欲しくないけど食べなきゃ申し訳ないな」とかやってたんですけど、もしかしたら今日は食べないかもしれないなと思うんですよ。

なぜならこれから IKEA に行くので私はきっとそこで何か食べると思うんですよ。帰りに長久手イオンとかまで寄ったら、たぶんおうちに戻るのが夜8時ぐらいなので、それまでに何か食べないともたなくて、でも何か食べると晩御飯入らなくなるんですよ。ただ、それが多分、「自分に愛を与える」ことなんですよ。私にとっては。

でも今気づいたんですけど、けいこさんがさっき作ってくれた晩御飯のおかずは、私が以前リクエストしたの聞いてくれて、私のタイミングで食べれるようなお惣菜を数種、ホーローに入れてくれていましたね。

だから、私はけいこさんの作ってくれたおかずを、自分のタイミングで食べれるんです。ありがたいな・・・けいこさんは私が自分を愛せるような準備をしてくれていたんだな(泣)・・・と今思いまして(泣)(泣)・・・ありがとうございます。

クロージング

ーー(太字:けいこ)今ここまで話してみて、自分の中でどんな感覚とか感情が浮かんできたり、感じたりしていますか。

(ふ) そうですね・・・あの、本当に頭の中に私すごくいろんなアイデアとか考えが浮かんだり結びついたり、そこからまた新しいのが生まれたりして日々、瞬間瞬間、してるんですよ・・・。

こないだ、なりたかさんのところで「ダイアローグと事業化」についての話をしたら、ある方が「一人の人の中にこんなにたくさんのアイデアがあるんだってことに驚いた」って感想をくださったんですけど、そのくらい私、本当に「自動思考製造機」なので、それをちょっと「出す」ってのがすごい必要で、でも機会がなかなかないもんですから、すごい溜まってるのが辛いんです。しんどいんですよね。これ本当に辛いんですよ。

だからこういう、、一気にもう喋らせていただけるのってすごいありがたいんですよね。

そういう意味で、なんか脳が楽になったっていうか。 老廃物を排出できたみたいな感じなので。「外在化」っていうか、メモリーが解放されたっていうか、なんかパソコンが軽くなる感じ。でもまたすぐ産まれるんですけどね、自動思考。

でも排出しなきゃいけなくって、その機会がすごいないのが辛いんですよね。今日はだから、こういう場にしていただいてすごい助かりました。もうちょっとこまめにできたらいいなと思いますけど・・・そうか、いまけいこさん運転しながら横で聴いてくれてるんですけど、いつもこんな話をけいこさんの方を向いて喋るので、けいこさんしんどいんですよね。

だけどこういう・・・いま文字起こしアプリにイヤホンマイクで喋ってるんですけど、けいこさん横にいてくれてるからこういうこともやれるんですけど、一人だとやらんのですけど、こういう、車で走ってるときとかに、一人で勝手に録音とかを日々しとけばいいのかなと思って。ブログの下書きもできるし、自動思考の排出もできるし、けいこさんも自分に向かって聴かされるよりは楽なのかな・・・。

ーー(け) 自動思考が排出されてそのぶんのメモリーが解放される。それによって、パソコンでいうと動きが軽くなったっていうことを聴いたけど、理解としては正しいかな。

(ふ)はい、正しいです 。

ーー(け)脳とかが軽くなった感覚があるっていうことなのかな。 なんかそういう身体的な変化みたいなのがあるのかどうかって、興味みたいな、多分ちょっと私の興味ですけども、もしよかったら何か教えてください。

(ふ)首から下の体にはまず何の変化ないですけど、脳が軽くなった感覚ってあって、これ脳の感じなのか単なる頭皮の感じなのかよくわかんないんですけど、とにかく頭にすごいガーンとかグワーンとか来るんですよね。ぎゅるんぎゅるんとか。

体感的には頭蓋骨の中の方でいろんなことが起きてる感じがすごいするんですけど、そういうことが医学的にありえるのかは知らないです。実際は頭皮の感覚なのかもしれないですけど、脳が軽くなったという感じはするんですよ。 考えてた自動思考がなんかまあ外に出たというか。

ーー(け)脳が軽くなるというのはどんな体験なのですか。 なんか軽くなったけどまたすぐに自動思考が湧いてくるとかいっぱいになるっていうようなことも聴いたような気がするんですけど・・・。

(ふ)頭痛にたとえると分かりやすいんじゃないでしょうか。頭痛がなくなった感じがするの、分かるんじゃないでしょうか。それまで「アタマ痛い」みたいなこと言ってたのが、なくなって、痛みが引いたら楽じゃないですか。そういう感じですよね。

ーー(け)なるほど、とても分かりやすかったです。ありがとうございます。

(ふ)そしたら、もう IKEA も近いで、この辺にしましょうか。いまトヨタ博物館の前を通過しております。

今日はどうもありがとうございました。だいぶ長いんで、これ2ヶ月に渡るかもしれませんけど、帰ったら編集してみたいなと思います。

(了)

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