胆沢物語『小夜姫②』【岩手の伝説㉑】
参考文献「いさわの民話と伝説」 編:胆沢町公民館
【五章】小夜姫【二節】
筑紫はもう、春が過ぎようとしていました。
博多から馬を捨てて、船に乗りました。
船路は必ずしも穏やかなものばかりではありませんでした。
奈良から再び陸路に変りました。
しかし路銀の都合もあって、馬を雇うことはできませんでした。
したがって吉実一行はもちろん、姫も硬い草履の旅でなければなりませんでした。
慣れぬ徒歩に、自然と姫の遅れが目立ってきました。
ことに山坂や瓦礫の道となると、深窓に育った小夜姫には無理であり残酷でした。
足にはまめができ、そのまめが潰れて血が流れ、その痕へまたまめができるという有様でした。
宿に着くと脚がうずいて眠れぬ夜が多く、したがって翌日の旅は難渋を極めました。
そんな時は、捨ててきた母や、貧乏であったけれども楽しかった故郷の風土が思い出されてくるのでした。
それが歌になるのでした。
立ち出でて帰りこんとは思えども
我はいづくの土となるらん
我をだに行くべき方を知らざるに
なんとて涙の先に立つらん
※(母の元や故郷を)立ち去って帰ってこれないとは思うけれども、私はどこの地で死んで土に還るのだろう。自分ですら行くべき方向を知らないのに、どうして涙が先に出るのだろう。
小夜姫には、これが唯一の慰めとなるのでした。
脚のうずきも痛みも、歌を作ることによって忘れてしまうのでありました。
大井川は雨でした。
二日間くらいの逗留で済むと思っていた川留めは、五日と続いてしまいました。
急ぎの人は、川人足に鳥目(金)をはずんで、危険な川を渡るのでした。
女連れの吉実には、増水の大井川は渡れそうもありませんでした。
六日目になってやっと水が減ったので、川渡りの行列が続きました。
※川留め・・・かわどめ。江戸時代、川が増水したときに、安全のため渡し船の運行を休止したこと。とくに大井川が典型的で、関所川ともよばれた。その業務に従事する人を川人足、川越人足とよんだ。
※鳥目・・・ちょうもく。金銭のこと。江戸時代までの銭貨は中心に穴があり、その形が鳥の目に似ていたところから。
吉実は川留めにあった五日間を取り戻すために、一刻毎にとった休憩をなくしてしまいました。
そのために女の小夜姫には、道中は一層苦しくなりました。
八月十四日の贄(にえ)の日が頭から離れない吉実は、イライラして遅れがちの小夜姫に意地悪い声をかけるようになりました。
小夜姫は買われた身、どうしようもなく、感覚もなくなって棒のようになった足を、泣く泣く踏みしめねばなりませんでした。
女の身に引きかえ、若い五助、松平には、女の足に合わせるには退屈なほど楽な旅でした。
その退屈さは、彼らの情欲をかき立たせる元になっていきました。
美しい小夜姫を見る目がいやらしく変わってきたのに、吉実は気付きました。
元気一杯な五助、松平に半年近い禁欲は、それは無理だということは吉実にも分かってはいましたが、贄の小夜姫を汚されるなら、半年の労苦は何にもならなくなってしまうことでした。
止々井沼(とどいぬま)の大蛇の要求は、あくまでも生娘ということが第一条件でした。
そんな訳で吉実の苦労は一つ増すことになりました。
そして早く江戸に着くことを願いました。
江戸には吉原という遊郭のあったことは、往時にも彼ら二人の性欲の捨て場として利用させた記憶もあったからでした。
※往時・・・おうじ。以前。
そこまでの数日間、吉実の監視は容易ではありませんでした。
彼らの機嫌を損じでもしたら大変ということもありました。
幸い最悪の事態だけは逃れて、夕刻江戸に着きました。
江戸はさすがに徳川幕府の城下とあって、大変な賑わいでした。
予定にしていた通り、吉実は五助、松平に鳥目をはずんでやりました。
翌日は好天でした。
奥州街道は本海道より道は良くありませんでしたが、もう故郷胆沢を目前にしたような励みがありました。
※本海道・・・ほんかいどう。本街道。江戸時代、江戸を起点とした五つの主要な街道。五街道ともいう。
しかし小夜姫にはそんな感情はありませんでしたから、苦労が倍加したというに過ぎませんでした。