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胆沢物語『姫と大蛇』【岩手の伝説㉑】

参考文献「いさわの民話と伝説」 編:胆沢町公民館


【六章】姫と大蛇


翌日、吉実の妻は、小夜姫があまりにも美しいので、大蛇の贄(にえ)にすることを可愛想になりました。

そのことを夫吉実に話すと、吉実は顔を変えて、実は贄のことは小夜姫にはまだ話していない旨を告げました。

いづれ小夜姫に話さねばならぬことなのだが、どういう風に話し出したらいいのか、そのことで疲れた割に昨夜はあまり眠っていないことを話しました。

そして何等(なんら)決着をつけないまま夜になりました。

そうした態度と心配そうな吉実夫婦の様子を、実は敏感な小夜姫がすでに感じ取っていました。

そして真実は、自分を大蛇の贄にするために連れて来たのであろうと、小夜姫から口を切り、夫婦は小夜姫から話されると、畳に額をこすりつけて申し訳ないと詫びました。

小夜姫は、これも避けられない自分の運命なんだと、むしろ吉実夫婦に笑顔さえ見せて、喜んで大蛇の贄になることを承知いたしました。

夫婦は手を合わせて、亡き後はねんごろに弔うからと、何回も何回も申しました。


いよいよ当日となりました。

郡司吉実、自慢の泉から汲まれた清水は、浴槽にたたえられました。

下僕(しもべ)たちによって風呂は焚かれました。

朝湯に磨かれた小夜姫は、また一段と美しく見えました。

吉実の妻は小間に導くと、化粧に取り掛かりました。

※小間・・・こま。小さい部屋。


鏡に向って静かに座った小夜姫の顔には、これから大蛇の贄としてゆくものの怖れるかげなど、少しも見えませんでした。

むしろどこか悟りを開いたというような静けさが見えました。

それを見ると吉実の妻は、化粧どころか小夜姫の掌を握って泣き伏してしまいました。

ようやく周囲から攻められ、二人の女中達とともに化粧を終わった頃は、もう出発の時刻をうんと過ぎていました。

贄の場所からは、当番の供の者が、準備が終わっている旨の傳言(伝言)を傳えてきました。

化粧終わった小夜姫を見て人々は、この世の人とは思われない、噂に聞く天女とはこういう人かと囁き合いました。

馬が準備されたことを聞かされると、小夜姫は改めて吉実夫婦の前に座って手をつきました。

長い間お世話になった礼と、自分亡き後の弔いを頼みました。

吉実の妻はもうなりふりも構わず、ただ泣くだけでした。

畳に伏して泣く吉実の妻を後に、吉実を先頭に小夜姫の一行は、吉実の屋敷を出発いたしました。


一行は、小高い丘の麓(ふもと)にさしかかりました。

吉実は馬上から小夜姫を振り返って、この丘からは止々井沼(とどいぬま)が一望にできることを話しました。

吉実には、せめてもの小夜姫に対する情のつもりであったのでした。

小夜姫も止々井沼なるものの全貌を見ておきたい心もあったので、その招きにすぐ応じました。

丘の上に立つと、すぐ眼下に大きな沼の広がりがありました。

沖の方は模糊と霞んではいるが、この巨大な沼に大蛇が棲んでいて、何十年もの長い間、乙女をさいなんでいる所とは、想像できないほどに静かな沼でした。

※模糊・・・もこ。ぼんやりしているさま。


小夜姫はふと筑紫の母を思い出して、南の方に顔を向けました。

その目には一瞬、水晶のような涙が浮かんだのに、誰も気が付きませんでした。

神の申し子として松浦(まつら)長者の元に生まれながら、父のおごりから一瞬にして変わる窮乏の生活。

※窮乏・・・きゅうぼう。貧乏に苦しむこと。


果ては大蛇の飼食(餌食)として、はるばる遠いみちのくの果てまで来た、自分の運命の不思議さに、小夜姫は夢の中にいる思いでした。

丘の上には秋近い草が繁って、白い可憐な花をつけているのもありました。

小夜姫はその花の一片を摘むと、唇に持っていきました。

もう自分は再びこの丘を越えて、故郷へ帰れる身でないことを、深く深く思うのでありました。

下僕が時刻の迫っていることを知らせに、吉実の元に走るのを見た小夜姫は、自分から先に立って丘を下りました。

この丘は後日、見分森と言われる森でありました。

途中小夜姫は、欝蒼(うっそう)と繁る樹木の間に、ひっそりと建てられてある一つの祠(ほこら)を発見しました。

丁度疲れている時でもあったし、自分の身の儚さを何かに祈りたい心もあったので、小夜姫は吉実に願って、その祠に寄ることにしました。

小夜姫はこの祠の本尊を尋ねましたが、誰も知っている者はありませんでした。

おそらく本尊なるものは何もないだろうとの結論になりました。

それを聞くと小夜姫は、懐中から錦の袋を取り出すと、その中から一体の仏像を取り、それを恭しく祠の奥に安置いたしました。

「これは私の守護神、薬師瑠璃光如来様です。

死ぬる身にもう不要です。

この土地の衆生のため納めていきます。」

と礼拝(らいはい)して立ち去りました。

目的の地は、もうすぐ目前です。

しかし小夜姫の足は、何の不安もない速度でした。

とても死地に赴くなどの想像もされないほど、しっかりした足並みでした。

途中、浄らかな清流がありました。

小夜姫はふと、手足が少し汚れているのに気が付きました。

贄の身に不浄があっては恥ずかしいと思い、この清流で浄めていくことにしました。

大きな石を足場に、手足を浄めました。

その後この川は垢川、足場にした石は垢取り石と言われるようになりました。


贄上納の場所には、太い柱四本を組んだ櫓が建てられていました。

※櫓・・・やぐら。木を組みあげてつくった高い台。


その周辺には、何百という人が群がって、小夜姫の到着を待っていました。

小夜姫は臆する風もなく、送ってくれた人々や出迎えてくれた人々に、丁寧な会釈をすると、高い櫓の上に上りました。

とそれを合図のように、沼の一点に黒雲がむくむくと立ち上りました。

見る間にそれが広がっていきます。

閃光が幾筋も空をかすめるや、万雷を凌ぐ爆音が轟きます。

※凌ぐ・・・しのぐ。おおいかぶさる。他よりまさる。


それが次第に、櫓を建てた岸辺に向って進んできます。

生臭い風が吹いてきました。

と、その黒雲の渦の中から、一頭の大蛇が躍り出ました。

その丈、二十丈余り、十六の角を振り立てて、紅の舌を巻き出し、両眼をかあっと見開き、火焔を吹き出しています。

風は強まり、雨さえ伴なってきました。

雷鳴は一層物凄くなり、振動も大地をひっくり返すほどになりました。

人々は耳をふさぎ目をつむって、その物凄さから逃れようとしました。

大蛇は二十余丈の身をくねらせながら小夜姫に近付き、ただ一飲みにせんと襲いかかりました。

その時、姫は少しも慌てず、近付く大蛇を見つめていましたが、櫓を足場に今や一飲みにせんと身構えた大蛇を一喝しました。

「大蛇よ、生あるものならば、しばし待たれよ。

我、汝が飼食となるを惜しむものにあらず。

我、今ここに法華経あるにより、これより読み聞かせんよって、法華経を読み終わりなば、汝直ちに我を服すべし。

※法華経・・・ほけきょう。大乗仏教の経典。誰もが平等に成仏できるという仏教思想が説かれている。

※すぐに私を飲み込みなさい。


法華経の第一巻は、浄土に座す頓証菩提のため、

※頓証菩提・・・とんしょうぼだい。速やかに悟りの境地に達すること。死者に極楽往生を祈る言葉。


二巻は、故郷に残せし母上祈禱(祈祷)のため、

三巻は、六道四生の羅刹に廻向す。

※ろくどうししょう・・・地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上の六道のどこかに、胎生・卵生・湿生・化生の四つの生まれ方のどれかをとって生まれること。

※らせつにえこうす・・・悪鬼が悟りを得て成仏するよう、供養する。


四巻は、吉実夫婦の祈禱のため、

五巻は、提婆品(だいばぼん)と申して、八才の龍女にいたるまで、皆成仏の御経なり。

※法華経の第十二品。提婆達多(だいばだった)と竜女の成仏を通して、悪人などの成仏を説く。その説話に登場する竜女が八歳だった。


汝もこの功徳を以って成仏いたせ、これは汝に廻向す。」

※功徳・・・くどく。祈祷などの、神仏の恵みを受けられるような善行。


と四辺に響く鈴をかき鳴らすような声で言いながら、その御経を大蛇の首に振り振り、御経を繰り返し繰り返し読経いたしました。

と、怒っていた大蛇は、いつしか首を垂れてしまいました。

轟いていた雷鳴や、篠突く雨風も止み、怒濤の沼も、平常の静かさに戻っていました。

人々もどうなる事かと耳をふさぎ、目をつむっていた頭を地からもたげて、小夜姫を見ますと、姫は盛んに読経していました。

持った経を大蛇に振りかけます。

と、その経を振りかけられた十六の角は、バラバラと音を立てて崩れ落ちました。

そして驚くべきことには、大蛇の姿も消えて、その後には一人の女性が立っていました。

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