胆沢物語『沼は静かに』【岩手の伝説㉑】
参考文献「いさわの民話と伝説」 編:胆沢町公民館
【七章】沼は静かに
女性は静かに小夜姫の前に座ると、深く頭を垂れました。
そして自分はかつて、高山なる掃部(かもん)長者の妻として、栄華の生活を送っていたが、あまりの欲深と邪悪さから神仏に見放され、大蛇の苦患(くげん)を受け、この地に棲むこと実に九百九十九年、この年月のうちに眉目良き女を服すること九百九十九人なり、この度は姫君に巡り会い、未来成仏ができたと、小夜姫の手を取って涙を流しながら喜びました。
小夜姫も自分の不幸さを話しますと、女は、しからば私の神力をもって、筑紫の松浦(まつら)まで一瞬の内に送りましょうと言いました。
そして女は、十六の角を巧みに組み合わせて、二つの筏(いかだ)を作り、一つには小夜姫を乗せ、一つには自ら、岸辺の人々に深く御礼をしながら乗ります。
筏は風もないのに、矢のように湖面を走って北上川に出ます。
そこで女は小夜姫と別れ、江刺に参ります。
こうして角欠白山権現となって、人々の災難の守護神となりました。
吉実は、岸辺から残っている角を拾い集め、塚を作ってねんごろに葬りました。
地方の人々はこれを角塚と名付けて、今に傳えています。
さて、角筏で北上川に出た小夜姫は、神通力をもって大洋をひた走り、七日七夜で筑紫の松浦に着きました。
筏を降りるももどかしく、飛んで我が家に戻って座敷を見ましたが、恋しき母の姿が見えません。
小夜姫は狂乱のように探しますが、家と言っても僅か二間ですので、気も抜けたように茅屋の真ん中に座ってしまいました。
※茅屋・・・ぼうおく。かやぶきの屋根の家。あばらや。
いづれ用事があって外へ出たのかとも思い、気を取り戻して待ちましたが、夜が更けて鳥獣も眠り、静かな夜がきても、母は帰って来ません。
まんじりともせぬ夜も開けて、朝がきたが、母は帰って来ませんでした。
※まんじりともせず・・・少しも眠らないさま。
そんな毎日が続いて、いつしか五日も経ってしまいました。
小夜姫は、みちのくの百余日の道中、母は待ちかねて亡くなったものと思い込みました。
もう母上がいなければ何の楽しみあって生きていこうと、小夜姫は自害を決意いたしました。
そして父母いますあの世とやらに参り、親子三人楽しく暮らしましょうと、短刀の鞘を払いました。
その時、天井に声が響きました。
「姫よ、早まるな。
我、長谷寺の観世音なるぞ。
母が行方を知らすが故、早う行きて、孝養を尽くさるべし。」
と言って音は消えました。
姫は平伏して謝し、観世音が言う美深ヶ原(びふかがはら)をさして急ぎました。
原は静まり返って、美しい初秋の太陽がさんさんと降っていました。
娘はあたりを眺めますと、原っぱの果てに、子供等が大勢群れ遊んでいるのが見えました。
行って子供等に聞いてみようと、近付いてみると、その子供等の輪の中には貧しい老女がいて、舞を踊っていました。
子供等はその頓狂をはやし立てているのでした。
※頓狂・・・とんきょう。だしぬけに、その場にそぐわない調子はずれの言動をすること。
小夜姫はその老女をよく見ると、それはなんと自分の母親でした。
娘のいなくなった母は、夜昼となく泣いたため、盲(めくら)になってしまったのでした。
あまつさえ気が狂い、こうして子供等の慰めものになっていたのでありました。
※あまつさえ・・・それだけでなく。おまけに。
小夜姫はあまりのことに涙ぐみ、母に駈け寄って娘であることを言いますが、狂った母は娘と信じません。
狐狸野猿の類であろうと、竹杖を持って追います。
姫は懸命に娘であることを言いますが、通じませんでした。
ほとほとに困った小夜姫は、ふと法華経のあることに気付きました。
早速経を取り出し、読経しながら御経をふりかけました。
すると不思議や、かの狂った母は正気に戻り、盲目の眼もパッチリ開きました。
小夜姫母子は、これも皆、かの観世音様のお恵みと深く信じ、それからは何不足ない明け暮れを楽しんだといいます。
慶長の頃、ある夕暮れ、この化粧坂の森を、一人の修験僧が歩いておりました。
※慶長・・・けいちょう。江戸初期の年号。
着た衣はだいぶ古びて、裾などに破れが目立っておりました。
太い杖をついた僧は、この辺は非常に気に入ったかのように、二、三歩歩いては止まり、六、七歩歩いては立ち止まりして、四方を眺めていました。
この僧は一円坊といいました。
そしてここに小さな祠を建てて、布教を始めました。
それが代が続いて、四代明盛となります。
その明盛が、病名不明の難病に罹ります。
名医名薬に闘病を続けますが、平癒いたしません。
ある夜、病人の明盛が霊夢を感じます。
即ち、化粧坂の山中に仏像がうずもれている。
それを掘って祠るべし、との霊感でした。
夢の中のお告げによる場所に来てみますと、如何にも材木の腐ちたらしい土盛りを発見いたしました。
その所を中心に、くまなく掘り起こしてみると、一体の仏像が現れて参りました。
これだ、とその仏像を浄め、堂を建てて礼拝(らいはい)いたしました。
と不思議にも、明盛の病気は一夜にして平癒いたしました。
この仏像こそ、小夜姫が止々井沼の贄にゆく途中、納めたものでありました。
明盛は病悩(びょうのう)の衆人の多いのを知って、信仰を勧めます。
人々は御利益のあまりに大きいのに驚きます。
即ち、今に伝わる化粧坂薬師如来であります。
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