断想

2014年10月26日(日) 16:02
宇宙をあらゆる存在(実在)の場と定義すれば、意識内容(表象)もまた客観的実在である。宇宙は物理的(物質的)実在と意識内容(表象)の実在の二元性を有する。美と言葉はこの二元性を架橋する媒体である。社会とは共同の表象が現象する意識の場である。

2014年10月26日(日) 18:09
言葉は意識に表象を喚起する実体である。夢も幻覚も宇宙の意識現象として客観的実在である。客観的実在とは、表象の共同性の程度に依存する。意識の言語化されない(表象化されない)領域が深層意識である。論理とは表象の中に反映する物質的実在の形式である。

2014年10月26日(日) 22:35
西部邁氏の稀有の(天才的とも言える)知性と言語力は不世出のものと言っても過言ではない。こんにち話し言葉においてさえ物事の本質を緻密、多層的・論理的に語れる知識人は、西部氏を措いてほかにいない。

2014年10月26日(日) 23:07
今日、日本の言論風土において保守思想がこれほど多く(いまやそれ自体「大衆化」するまでに)語られるようになったのは、西部氏が政治・社会思想としての保守思想の意義をさまざまな著書や議論の場で論述し、理論的に提示したことによるだろう。

2014年10月26日(日) 23:14
まさに日本に近代主義的大衆社会が到来しつつあった昭和55年前後、大衆批判をいちはやく展開したほとんど唯一の知識人こそ西部邁氏その人であった。

2014年10月26日(日) 23:19
しかしながら西部氏の大衆社会批判には魂の次元への視点が欠落している。西部氏の社会科学的・社会思想的位相とは異なる、精神と魂の次元から大衆社会批判を行ったのは、僕が知る限り亀井勝一郎であった。

2014年10月26日(日) 23:26
小林道憲氏は、西部氏に先立ち、西部氏とは異なる魂や精神の視点から根源的な大衆社会批判を展開したもう一人の透徹した人であった。雑誌「自由」に連載され、その後「欲望の体制」として上梓された小林氏の大衆社会批判の書は、精神が大衆社会にあらがい、生きるために、大きな力となったのである。

2014年10月27日(月) 16:52
亀井勝一郎の「我が精神の遍歴」の第二章に「病者の自覚」という言葉が出てくる。このツイッターなるものに手を染めること自体、魂の次元を喪失したこの空虚な現代文明に自らの精神が侵されているまぎれもない症状であろう。

2014年10月27日(月) 18:43
総じて、経済的貧しさを知らずに育った今日の制度化されたアカデミズムの「小知識人」たち、今日の日本の近代主義的大衆社会の申し子たちの精神の矮小化に大衆化の内実を見ることができよう。今日の小知識人たちの精神の生態は、疑似知識人ないしは専門人のそれと言うべきであろう。

2014年10月27日(月) 19:44
社会とは、共有化された表象の現象である。

2014年10月27日(月) 20:48
言葉の表象機能によって成立する表象の共有化(社会化)は根源的には言葉の意味の共有領域に由来する。

2014年10月27日(月) 20:56
表象は意識の地平である。

2014年10月28日(火) 16:08
応用数学の一分野に閉塞した経済学の方法論は自然科学における19世紀以前の機械論的自然観を社会現象に模倣的に適用したものであって、それゆえ、その方法論は、いわば「人間特有の因子」を捨象した医学的方法論になぞらえることができよう。

2014年10月29日(水) 21:44
表象は共有化される度合いに応じて独立性を帯びる。表象の客観性とはその意味での表象の共有によって現出する表象の自己離反である。

2014年10月29日(水) 21:57
西部邁氏の「保守思想のための39章」の中に次のような一節がある(11頁)。「・・そうした批評を組み立てるに際して、唯一の拠り所となるのは、私の思うに、近代における保守思想の系譜が示しているものである。なぜなら保守思想だけが近代主義への根本的な懐疑を提起しつづけてきたからだ。」

2014年10月29日(水) 22:18
西部氏に僕はほぼ全面的に同意する。ただしかし「保守思想だけが近代主義への根本的な懐疑を提起しつづけてきた」という言明に関してのみは異論があると(あえて)言いたい。マックス・ピカートやマルチン・ブーバー、さらにキルケゴール。それはより深い魂の次元からの近代主義への根源的な批判にほかならないのだから。

2014年10月29日(水) 23:01
認識論と存在論は宇宙の進化という位相を捨象した静態的哲学というべきである。ベルグソンやテイヤール・ド・シャルダンが闡明する宇宙の時間的現象としての進化の位相を包摂した実在の動態的哲学の再興が必要であろう。

2014年10月30日(木) 08:24
こうして、世代から世代へ、一本の樹木の生長に似た悠々たる進歩をつづけて伝えられて行くものは、それは生命であると同時に、また認識でもあった。なんと神秘な登山であることよ!

2014年10月30日(木) 08:25
灼熱の熔岩から、星の練粉から、奇蹟によって芽生えた生命ある細胞から、僕らは生まれ出たのであったが、やがて、少しずつ、僕らは自らを高めて来た、詩を書くまでに、天の川を計測するまでに。 (サン=テグジュペリ 「人間の土地」)

2014年10月30日(木) 08:35
初めに時間があった。宇宙(存在)は時間から生まれた。存在は時間であった。時間は物理的存在と意識を生んだ。そして意識から美と言葉が生まれ、美と言葉から表象が生まれた。

2014年10月30日(木) 16:37
西部氏は、「アメリカ帝国主義は、その純粋な観念型としては、実は日本において開示されている」とし、「それは、戦後日本の、・・戦勝国アメリカへの過剰適応の結果だといってよい」と述べている。(「保守思想のための39章」P.19)

2014年10月30日(木) 16:43
また、「「戦後」の舵取りにとって方向指示を与えてきたのは「アメリカ的なるもの」であった」と述べている。(「同書」P.21)しかし、アメリカニズム(近代主義的自由主義)が顕著になるのは、大衆社会化による庶民の変質が始まる1980年(昭和50年)頃からではないかと思われる。

2014年10月30日(木) 16:52
日本社会の大衆化は、1980年(昭和50年)前後、明治人の社会の表舞台からの退潮と軌を一にして顕著になっていったのであり、それ以前は、庶民意識はもとより、社会規範のそこかしこにアメリカニズムの影はいまだ浸透せず、戦前からの規範の連続性は少なからず保持されていたと思われる。

2014年10月30日(木) 17:04
少なくとも日本の政治社会的言論空間に限るなら、「論壇」がマスコミ・インテリ層に大きな影響力を及ぼしていた1970年前後までは、西部氏の言うアメリカニズムなどはほとんど影も形もなく、丸山及びその亜流の民主主義者に典型をみる進歩的文化人によって支配されていたというのが僕の体感なのだ。

2014年10月30日(木) 18:07
西部氏の謂うアメリカニズムは、昭和50年以降日本社会の大衆社会への変質に伴い、エコノミストなるモノマニアックな疑似知識人を叢生させ、大学知識人もまた1970年以後、思想的総合知を欠如し、制度としてのアカデミズムへの順応をもっぱらとする小知識人、専門人へと矮小化してゆくこととなる。

2014年10月31日(金) 18:10
清水幾太郎は世上、進歩的文化人の代表格として名指しされるが、僕は違った見方をしている。福田恒存の清水批判は、ある意味正鵠を射ていたことも理解できた。にもかかわらず、僕の中で清水は丸山及びそのエピゴーネンたちとは別格の屹立した知識人だった。少なくとも戦後民主主義者でないという点で。

2014年10月31日(金) 22:01
60年安保闘争を「敗北」と総括したところに、僕は丸山流の西欧エリート主義者と異なる知識人清水幾太郎の真骨頂を見る。そして清水の「転向」・「変節」を非難する論者は世に数多だが、僕はむしろ安保闘争当時から「日本よ国家たれ 核の選択」まで、清水の思想的営為の本質は一貫していたと見る。

2014年11月1日(土) 11:42
西部氏の文章の難解さは、西部氏独自の用語法と論理の文学的表現法、観念の標語的抽象化、真偽の評価・判断と論理展開の了解を困難にする客観的具体的状況の極度の抽象化にあるのではないか。

2014年11月2日(日) 16:57
意識は物理的実在から発生するが、意識内容は物理的実在とは別の次元の存在として宇宙に実在する。宇宙の物理的秩序が一定の形式によって(人間固有の形式として)表象化されたものが物理「法則」である。それゆえ、「法則」は表象の次元の実在として存在する。

2014年11月2日(日) 18:05
ショーペンハウアーの「世界はわたしの表象である」という言明における「世界」とヤスパースの「包括者」の概念内容はどのように重なり、またどのように異なるのか。

2014年11月6日(木) 18:03
表象は生命体としての脳において生成される意識内容であり、我思うゆえに我ありの「我」(主観)も、思惟において対象化された客観も、すなわち「主観=客観の分裂」(ヤスパース「哲学入門」第三講 包括者)も、自己の表象の中の現象である。

2014年11月6日(木) 18:11
意識の「発生」は宇宙の物質的次元の現象であるが、意識内容は宇宙の意識次元の現象である。それゆえ、意識の「発生」に関する表象は物質次元に還元できるが、意識内容は物質次元の現象に還元できない。

2014年11月6日(木) 18:59
「我思う、ゆえに我在り」。これは「我思う、ゆえに物質的存在としての我在り」という言明であり、同時に、「我思う、ゆえに主観としての我在り」という、宇宙の2つの次元の同時存在としての自己に対する確証である。

2014年11月7日(金) 18:20
一人ベルグソンを例外として、カントにせよドイツ観念論にせよ、宇宙の(すなわち存在の)「進化」の視点がまったく含まれていないのは奇妙としか言いようがない。「進化」を宇宙(存在)の属性として措定する動態的哲学は、その属性を排除した静態的哲学を包摂する新しい高次の哲学である。

2014年11月7日(金) 21:46
ヤスパースの言う思惟における主観=客観の分裂(「哲学入門」第三講 包括者)は、表象の中で思惟の論理によって発生する光と影の関係になぞらえることができよう。

2014年11月9日(日) 06:28
表象は意識内容であり、人間のすべての思惟されたもの(認識)は表象である。初めに時間があった。表象は宇宙の進化の現象として存在する。

2014年11月9日(日) 22:16
記号は物質的次元の実在であり、表象である意味内容は意識の次元の実在である。記号と意味内容の関係は、脳と意識の関係と相似である。

2014年11月9日(日) 22:19
論理は宇宙(存在)の意識次元の実在(属性)である。

2014年11月11日(火) 17:15
人間の意識の次元で遂行される表象としての認識行為と意識内容(表象)そのものが宇宙の進化の現象として存在する。

2014年11月11日(火) 17:24
物理学という表象は、宇宙の物質的次元に対する人間固有の、認識行為の歴史的可能性の形式として存在する。歴史的とは、それが宇宙の進化の現象として存在することを意味する。

2014年11月11日(火) 17:42
人間の意識の本質は、記憶と認識作用として発現する生のエラン・ヴィタ-ルである。

2014年11月12日(水) 17:47
人間の思惟の一切は表象によって遂行される。この言明自体が表象による言明である。言葉、記号、感覚によって生成し、喚起される意味もまた表象である。思惟は意識における生のエラン・ヴィタールである。思惟は宇宙(存在)における意識の進化の中で生成している宇宙の現象として存在する。

2014年11月15日(土) 15:11
昭和50年以降加速する日本の大衆社会化は、明治世代の退潮に伴う規範意識の変質とテレビ・活字及びビジュアルメディアの低俗化に伴って現出することになる。皮肉なことに、論壇の衰退と進歩的文化人の退場もこの大衆化によってもたらされることになったのである。

2014年11月15日(土) 19:40
この大衆社会化によって出現・叢生することとなった専門人(小知識人)、「その典型的な類型は「エコノミスト」と称する疑似知識人であった。その本質は、日本の歴史と伝統に精神の根を持たずに育った者たちに特有の、知性の皮相化と浮遊化、「精神」の蒸発にある。

2014年11月16日(日) 15:53
伝統とは、歴史における「持続」である。

2014年11月22日(土) 18:01
伝統は集合的無意識によって共有される意識の歴史性である。

2014年11月22日(土) 20:30
高度経済成長期が終焉を迎える昭和50年は戦後日本の分水嶺であった。そして日本はそれ以後大衆社会へと急速に変質していくのである。

2014年11月24日(月) 16:30
脳と意識は、言葉(記号)と意味内容の関係に相似である。(ただし、脳は物質的次元の存在であるが、言葉は物質的次元と意識次元の双方的存在である)

2014年11月24日(月) 16:37
実存としての自己の自覚は、意識の深化、すなわち宇宙の進化の現象として存在する。

2014年11月24日(月) 18:35
ヤスパースの実存哲学は高次の意識への超越を目指す生の哲学である。それゆえそれは、近代という歴史的条件の中で発生した宇宙の意識の次元における進化の一現象である。

2014年11月27日(木) 00:12
歴史は物語であるといわれる。それと同様の意味で経済学は本来的に歴史学である(べき)であろう。人間存在および社会的状況の歴史性にこそ社会的現実の本質があり、対象の歴史性の有無が自然科学的対象と「人間の社会的精神現象」としての経済学的対象の本質的相違であろう。

2014年11月27日(木) 17:32
応用数学の一形態に過ぎない経済学の理論は、どれほど科学的意匠を凝らそうとも、しょせんは「ゲーム」の理論に過ぎないであろう。

2014年12月9日(火) 18:15
根源的哲学の思惟。すべての存在の生起する場である宇宙。時間と空間と意識。物質的実在と意識的実在。表象。言葉。意味。美。思惟。宇宙の進化である意識の進化。意識の進化の方向。霊性と実存。進化の現象である生命。歴史。歴史の果実としての伝統。表象の共有。表象の共有の場としての社会。

2015年1月31日(土) 14:22
経済学が扱う実証的数量データじたいが、その本質において過去の「史料」であるからして、経済学は方法論において、本来的に歴史学と共通する本質を有している、その意味で経済学は数学的側面と同時に歴史学的側面を忘却すべきではない。

2015年1月31日(土) 14:25
《Capital in the Twenty-First Century》において、Pikettyは、「本書は経済学の本であるのと同じくらい歴史研究でもある」と述べたのも、その意味においてであろう。

2015年2月7日(土) 01:23
NHKで放映された「知の巨人たち」で吉本隆明を見る。吉本は僕にとってこれまで気になりつつも接近することのない人だった。丸山真男のような人間が僕にとって永久に殆ど無縁の人間であるのに対し、吉本は父と重なり合う存在であることに気づく。

2015年2月7日(土) 07:26
吉本隆明は最後まで戦中派として生き抜いた人だったと思う。時代が吉本を生んだのだ。吉本の言う大衆の原像とは、むしろ「庶民の原像」と言うべきものだったのではないか。

2015年2月7日(土) 07:38
吉本隆明が、高村光太郎の最もすぐれた研究家であり理解者であった北川太一さんと同世代の親しい友人だったことをこの番組で初めて知った。それは僕とってうれしいことであり、コロンブスの卵のようにそうだと知ってみれば、それはきわめて自然なことだと思われた。

2015年2月7日(土) 09:08
吉本隆明を腰を据えて全量を掛けて読み、吉本と向き合う時がやっと来たのだと思う。ずいぶん昔買ったまま読まずに本棚の奥に埋もれていた「共同幻想論」を取り出した。「言語にとって美とはなにか」は昔買った気がするのだが見つからないのでアマゾンに注文した。

2015年2月7日(土) 15:56
吉本隆明の詩には、マルセル・マルチネの詩とどこか似た特質と響きがあるような気がする。吉本の、思索における愚直なまでの誠実さと生き方は、遠いところに瞬く確かな星のような慰藉がある。

2015年2月7日(土) 16:11
マルセル・マルチネがホイットマンを愛読していたことを知った。僕のなかで、マルセル・マルチネ、ホイットマン、高村光太郎、吉本隆明が一つの稜線のようにつながった。

2015年3月5日(木) 17:17
人間の生の一回性、その根本的な宿命こそ、まぎれもなく人間の絶対的な条件であり、この限界を等しく背負って「時代」という運命の舞台の中に生まれる生者によって紡ぎだされる、一回性の、それゆえ絶対的な、人間経験の現象、それが歴史である。

2015年3月5日(木) 17:19
歴史とは、免れえぬ人間の宿命と限界を持って生まれた者たちが、自己の巡り合わせた時代の運命をいかに背負い、かつ生きたかの記憶であり、運命の物語である。人生が喜びと成功だけでなく、過誤にも決して欠けていないように、歴史もまた不条理の影に半ば覆われた悲劇であることを理解すべきである。

2015年3月5日(木) 17:24
我々が今、我々の歴史を生きているように、生成する時間の先端に立ち、眼前の未知の時間の闇と相対しつつ、時代に翻弄されそれと格闘しつつ、死者たちもまた彼ら自身の一回性の歴史を生きた事を忘れるべきではない。生者は皆、歴史を生きつつ、その歴史を知り得ぬままついに死者たちの列に加わるのだ。

2015年3月5日(木) 17:25
《というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部だからです。・・今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔を合わせて見ることになります》(コリント人への手紙Ⅰ 13:12)

2015年3月5日(木) 17:27
この宿命の上に超然として立ち得るはずもない者たちに、どうして「歴史を裁く」などという身の程を知らぬ思い上がりが許されるであろうか。《偽善者よ、まず自分の眼からうつばりを取りのけるがよい。そうすればはっきり見えるようになって、兄弟の眼から塵を取りのけることができるであろう》

2015年3月5日(木) 17:31
歴史を裁く愚かさとは、現在の生者もまたかつて生者だった死者たちと同じく歴史的存在にすぎず、従って生の絶対的条件(限界)を免れているわけもない現在の生者に、そもそも死者の生の絶対性を裁く資格などありはしないこと、

2015年3月5日(木) 17:31
そして歴史的秩序と伝統は、死者が生者に託した、死者と生者を結ぶ共有財産に他ならないこと、そのことに寸毫も思い至らぬ者の度し難い傲慢にほかならないのである。

2015年3月25日(水) 06:26
我思うゆえに我在り。自己の意識が実在すること自体は否定できない。 実在するということは、それが他者に認識されうるかどうかにかかわらず、この世界に存在していることそのものによって客観的実在であることを意味する。意識は主観的であって、かつ客観的である。主観性そのものが客観性を有する。

2015年3月25日(水) 06:26
主観性とは、客観的実在としての主観性である。この世界に実在すること自体、それが主観的性質を有するかどうかにかかわらず、実在は客観性を有することを意味する。主観的客観性、主観性という実在。主観性そのものが実在の一形態である。

2015年4月21日(火) 17:39
意識は共有されうる領域と共有されえない領域からなる。社会性とは言語により共有されうる領域における表象現象である。社会(意識が共有される領域)と実存(共有されえない領域)。それ(意識が共有されうる領域の現象)と汝(共有されえない領域の現象)

2015年9月13日(日) 16:23
制度化された経済学、それは本質的に近代主義の学問的実体化と言えよう。今日の凡百の「経済学者」たちの凡庸さは、制度化された経済学のギルド世界でポストを得るために(西部氏の言う)実際知の対極にある定型化されたテクニカル・ナレッジの体系に適応する能力しかない者たちの当然の結果である。

2015年9月13日(日) 16:39
歴史意識も歴史・文化に対する深く広い思想・教養ももたず、数学的にモデル化された技術知に長けるだけの能力しか持たない者たちが制度化された経済学のギルド世界で経済学者を名乗る、それは経済学者の小市民化というべきであろう。

2015年9月13日(日) 17:34
制度化された経済学は物理学もどきであり、いかに理論(モデル)体系に数学的意匠を凝らそうとも、所詮それは古典物理学の真似ごとに過ぎない。

2015年9月13日(日) 17:39
何故なら物理学は普遍的法則を理論的に証明し、実証する認識営為であるのに対し、普遍的法則を原理的に内在しない経済現象の歴史性を捨象した「経済学」は観念上の数学化した「モデル」空間における数学的論理の単なる適用に過ぎないのだから。

2015年9月22日(火) 18:14
自然科学と経済学(社会科学、人文科学と称して敢えて「科学」と言いたいというなら、むしろ「人間科学」もしくは「文化科学」と言うべきであろう)の本質的相違―自然科学が普遍性を対象とするのに対し、経済学は人間の社会的現象(文化現象)、従って歴史現象を対象とするということである。

2015年9月22日(火) 18:31
文化現象、すなわち歴史現象の普遍性はけっして客観的に証明されえない。文化現象(歴史現象)の普遍性は信仰の領域に属する。経済学が普遍性を対象としえないのはそれが(経済現象が)文化現象であることによる。

2015年10月31日(土) 16:50
応用数学化した制度化された経済学は、社会的現実とは別に仮想された西部邁氏の言う「技術知」の体系に過ぎない。たんに数学論理の体系によって構築された論理体系に過ぎない。

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