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第34回 『増鏡』の女性達③ 前斎宮 愷子(がいし)内親王 【早稲田の古文・夏期集中講座】

愷子がいし内親王は、後嵯峨院の皇女で、後深草院や亀山院の異母妹にあたります。
伊勢の斎宮さいぐうを三年務めていたので、前斎宮と呼ばれていました。
『増鏡』では、この前斎宮と御深草院がただならぬ関係にあったことを、三章に分けて詳しく記述しています。

後深草院が出会ったのは、1274~1275年くらいのことです。
この時、前斎宮は22~23歳でした。
彼女の姿は、「霞の間に咲き匂う桜より美しい」と書かれています。
後深草院は、その美しい面影がありありと思い浮かべて、夜も眠れぬほどだったと言います。
その有様について作者は、「いとわりなき」(なんとも困ったことだ)と記しています。

御はらからといへど、年月よそにてひ立ち給へれば、うとうとしくならひ給へるままに、慎ましき御思ひも薄くやありけん。
なほひたぶるにいぶせくてやみなんは、あかず口惜しと思す。けしからぬ御本性なりや。

【訳】御兄妹とはいっても、長い年月を外でお育ちになったので、すっかり疎遠になっていまわれているわけで、(妹に恋するのは良くないのだ、という)慎まれるお気持ちも薄かったのであろうか、やはりひたすらに思いもかなわず鬱々として終わっていまうのは、不満足で残念に思われる。よろしくない御性格であるよ。

『増鏡』(中)井上宗雄訳 講談社学術文庫

『増鏡』のこの部分は「とはずがたり」によるものです。そこでは、後深草院二条が、この時の様子をもっと克明に生々しく書いています。

後深草院は、二条を使ってわざわざ手紙を前斎院のもとに届けさせているのですが、自分の側室に、妹への手紙を届けさせるという後深草院の性格は、やはり作者にとって「けしからぬ」ものだったのでしょう。

前斎宮のもとに二条が手紙を届けた時、「御返事はいかがいたしましょうか」と尋ねた所、前斎宮は「どう答えたら良いかわからない」と言って、そのまま寝てしまったと書かれています。
この前斎宮の態度は、作者として不思議に感じたようです。なぜなら、「拒否しない」ということは、「自ら招き入れる」ことと同義だからです。
それでも、『増鏡』の作者は、女性の立場で書かれているので、後深草院の素行の悪さは非難していても、前斎宮の優柔不断さについては、非難の言葉がないところが興味深いです。

結局、二条は、後深草院を前斎宮の所へ招き入れるはめになってしまいます。
それは、後深草院がしつこく「ただ寝給ふらんところへ、みちびけ、みちびけ」と責めるので「それも煩わしい」と思い、「御供に参るだけならなんでもないこと」と御案内するのです。
この時、二条は「前斎宮が苦も無くおなびきになってしまわれたらしいのは、あまりにも残念なことだった」と冷めた目で、前斎宮の無神経ぶりを暴露しています。前斎宮の態度に、同性として、何か許せないものがあったのかもしれません。

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