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忘れていた『天命』を思い出す 【安岡正篤「人生五計」に学ぶ】

戦後、政財界に絶大なる影響力をもち「陰の御意見番」「首相指南役」などとも評されていた安岡正篤さんには、『人生五計』という言われる有名な教訓があります。

一。生計・・・いかに生きるか
二。身計・・・いかに身を保つか
三。家計・・・いかに家庭を維持するか
四。老計・・・いかに歳を重ねるか
五。死計・・・いかに死を迎えるか

人は、50歳を過ぎた頃から、老計と死計が一番大切なことです。
日頃、子供たちに教える立場として、
「40歳・50歳になって、自分の人生何だったんだ!と思うような生き方をしてはいけない」
ということを事あるごとに伝えるようにしています。

人生は「30年」という一区切りで考えていくものであるというのは、古くから言われてきた生き方の指針です。
昔は、50歳前後が平均寿命でしたから、15歳で元服し、45歳で隠居となって、家を後継者に譲るということが広く行われていました。
この「人生30年」という法則は、現代でもあてはまる考え方と言えるでしょう。
現在は、18歳~20歳で成人となるので、30年後の「50歳」というのが人生において重要な年代となるのです。
安岡正篤さんも、50歳が一つの目安だと言っています。

渋味、苦味という味は、お茶でも三煎しなければ出てまいりません。
人間にしても、やはり五十を過ぎないと出てまいりません。

『運命を創る』(プレジデント社)「老計」より

論語にも「五十にして天命を知る」という言葉があります。(為政篇)
天命とは、天の定めた運命や宿命のことです。
人は50年間生きることで、やっと天の定めた運命や宿命を知ることができるというのが、真実なのかもしれません。
「自分は何をやってきたのか。」
「何をしなければならなかったのか。」
「何をしてこなかったのか。」
「何ができなかったのか。」
などと、これらの思いが渾然一体となって、一気に溢れ出てくることから、目の前の現実をみて、衝撃を受けてしまうのです。
茫然自失となり、ある種の虚しさにおそわれる人もいるでしょう。
50歳を迎えたことで、自らの天命に気づき、至らぬ自分を猛省するからです。
本当であれば、この人生でやらなければならないことがあったにもかかわらず、生活や仕事といった毎日の忙しさに追われてしまい、自らの天命を直視したり、考えたりしてこなかったことのツケがまわってくるのが、この50歳という年頃なのです。
「人間五十年 下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。」という幸若舞「敦盛あつもり」の一節を吟じながら舞っていたといわれている織田信長は、49歳で非業の死を遂げました。
そのような死を迎えることが、彼の天命だったのかもしれません。

人生の節目節目で、どのように過ごさなければならないかということは、『論語』でもしっかりと述べられています。

子曰、
吾十有五而志于学、
三十而立、
四十而不惑、
五十而知天命、
六十而耳順、
七十而従心所欲不踰矩。

【書き下し文】
子曰く、
吾十有五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑はず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順ふ。
七十にして心の欲する所に従ひて
のりえず 。

『論語』(岩波文庫)「為政第二」

40歳~50歳を迎え、後悔のない人生を送るためには、「15歳で志を立てる」ということが必要です。
今で言えば、中学3年~高校1年の頃ですが、ここで「何を思い、何を目指していくのか、きちんと考えていますか?」というのが、孔子が伝えたかったことです。
15歳の頃に、生きる目標を定め、「自分はこの道で生きていくんだ」「死ぬまでやり続けるんだ」と思うことができた人は、最高の人生が送れる可能性を秘めています。これこそが理想の人生と言えるでしょう。

いかに生きるのか。
いかに死ぬのか。
という問題は、「吾十有五にして学に志す。」という最初の一歩=初心が、非常に大切です。
「天命を知る」50歳を迎えている人はもちろん、それより若い人も、ほんのわずかな時間でも、日頃の雑事から離れ、15歳の頃のことを思い返してみるとよいかもしれません。
現代は、平均寿命が80歳の時代です。
たとえ50歳を過ぎていても、今からの「30年」で忘れていた天命を全うすることも、決して夢ではないのです。

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