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将の器は得難し 【『十八史略』韓信】

千軍は得易きも、一将は求め難し。
(千軍易得、一将難求。)
【現代語訳】
多くの軍兵は得易くとも、一将は得難し。

『通俗篇』巻之八 武功

この言葉にもあるように、「将の器」というものは、なかなか巡り会えないものです。
漢を興した皇帝・劉邦の元に来た「韓信」は、そんな数少ない「将の器」の一人でした。

韓信といえば、『十八史略』に出てくる「韓信の股くぐり」の逸話が有名です。
韓信は、淮陰わいいん江蘇こうそ省)の貧しい家で生まれました。あまりの貧しさのため、母親の葬儀も出せなかったと言われています。
ある日、城下で釣りをしていた時、近くで古い綿を水にさらしていた一人の老婆に出会います。
その頃、韓信は、何日も食べられない日々を過ごしていたので、老婆はその飢えた様子を見るに見かねて、食事を与えました。
そのまま、彼は数十日間、老婆の世話になったのですが、その時、
「自分が出世したら、必ず、この恩に報いる。」
と老婆に言いました。
しかし、この言葉を聞いた老婆から
「自活できないような者に何ができるか!」
と叱り飛ばされてしまいます。
韓信は、食べ物を恵んでもらうような生活を続けていたこともあり、彼をからかうために絡んでくる無頼者もいました。
彼らは、仲間が多いことを笠に着て、韓信に恥をかかそうとしてきます。
「貴様は図体ばかりでかくて、偉そうに長剣なんぞを腰に挿しているな。
 やれるもんなら、その剣で俺を刺してみろ!
 それが出来ないなら、俺の股をくぐってみろ!」
そう言われた韓信は、じっと相手を見つめた後、衆人環視の中、何も言わずに腹ばいになって、股をくぐったと言われています。
これらの逸話は、韓信が若い頃から「大志」を抱いていたことを示すものとして語られてきました。
特に「股くぐり」の逸話は、天下に志のある者は、無用の争いをしない「本物の勇気」というものを持っているということを教えてくれます。
本物の勇者は、「大望」や「志」を内に秘めているので、常人には分かりません。
偽者ほど、強がってみせるため、蛮勇を好みます。
喧嘩に明け暮れる不良少年などは、所詮小者こものと言えるでしょう。
そのような人たちは、天下国家を相手に戦いを挑むほどの度胸がありません。
人物の「器」が小さいので、「志」も小さいのです。
天下国家や世界を相手にしている人は、誰に言われるでもなく、密かに着々と準備を進めているものです。
大物とは、自然とそういうことが出来る人のことを言うのかもしれません。
実際に韓信は、後に漢軍を統率する大将軍となります。

漢の初代皇帝となる劉邦は、そんな韓信の器の大きさが分かりませんでした。
韓信の器の大きさを見抜いたのは、宰相の蕭何しょうかです。
韓信は、当初、敵である項羽の陣にいました。
いくつかの策を項羽に献じたのですが、全く相手にされなかったので、劉邦の陣にやって来ます。
最初から韓信の才を見抜いていた蕭何しょうかは、劉邦に推挙しますが、結局低い地位しか与えられませんでした。
韓信はその待遇を不服として、また逃げ出したのですが、その様子を見た蕭何は慌てて追いかけて、彼を連れ戻そうとします。
ところが、その二人の様子を見て、「蕭何まで逃げ出した」と告発する者が現れます。
これを聞いた劉邦は怒り心頭でした。
「今までは、たとえ脱走者がいても、そんなことをしたことはなかったのに、韓信の時だけ何故だ!」
と厳しく蕭何を問い詰めます。
これに対して、蕭何は次のように答えています。

諸将は得易きのみ。信は国士無双なり。
王必ず長く漢中に王たらんと欲せば、
信を事とする所無し。
必ず天下を争はんと欲せば、
信に非ずんばともに事を
はかる可き無し、と。

【現代語訳】
漢中王という一地方の王で良ければ、韓信などは要りません。
しかし、天下の皇帝となるためには、韓信は必要不可欠な人材です。
なぜなら、韓信は、他に並ぶこと無き二人といない「国の士」「国の宝」なのですから。

新釈漢文大系『十八史略』明治書院

蕭何が残したこの言葉は、歴史上、燦然と輝く名言といえるでしょう。

項羽を破り、楚王となった韓信は、悲しい最期を迎えています。

狡兎こうと死して走狗られ、
飛鳥きて良弓おさまり、
敵国破れて謀臣亡ぶ。

【現代語訳】
狡猾ですばしっこい兎がいなくなれば、
優秀な猟犬は不要となり、
煮て食べられてしまう。
捕まえる鳥がいなくなれば、
良い弓も不要となり、死蔵される。
敵国が滅んで無くなってしまえば、
もはや忠臣は用いられることもなく、
かえって穀潰ごくつぶしとして命を奪われる。

新釈漢文大系『十八史略』明治書院

韓信が最期に吐露したこの言葉から、彼の無念さがひしひしと伝わってくるようです。




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