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はたして美しい冬は迎えられるのか 【『論語』に学ぶ】

とし寒くして、しかる後に松柏しょうはくしぼむにおくるるを知るなり。

『論語』金谷治訳(岩波文庫)子罕篇

冬は寒さの中で花が落ち、葉が枯れ、佳景寂寞たる情景です。
電灯も暖房器具もない昔であれば、心の中まで寒風吹きすさぶ、侘しく寂しい気持ちで満たされていたことでしょう。
このように外の環境が暗然たるものであればあるほど、内面の霊明霊光が輝くものであるとするのが、冒頭にご紹介した一文が表現している世界観です。
夏は、太陽が燦々と輝く時は色とりどりの花が咲き乱れ、葉も活き活きと生い茂るように生命力が漲っている時です。
このような時は、松や柏のような常緑樹は、ひっそりと影を潜めた存在です。
人は、とかく美しい花や葉といった見た目の美しさに目を奪われるものなので、夏の時期は、常緑樹の存在は目立たないものです。
しかし、そんな花々なども、時が経てば枯れてしまいます。
同様にどんな若者であっても、年齢を重ねるに従って、若さが失われていくものです。
そんな時こそ、人の価値が問われる瞬間です。
若さや美しさといった外見上の輝きが失われた時こそ、内面の美しさや価値が一番に光り輝くものだからです。
人生にとって永遠の宝と呼べるものは、「学問」「芸術」「信仰心」と言われています。
若い時から、これらの宝を大切にし、しっかりと修養を積み重ねた人は、顔つきが違います。
その人の品格や知性、威厳といったものは、自然と顔や全身から滲み出てくるものです。それは誰の目にも明らかなごまかしようがないものです。
松や柏は、このような「冬の寒さ」でも衰え枯れることのない内面にある徳の輝きの象徴として使われています。

僧、雲門に問う、
しぼみ葉落ちる時如何いかん
雲門曰く、
体露金風。

【現代語訳】
ある僧が、雲門禅師に問いました。
「木が枯れ葉が落ちる時や如何。」
雲門は言います。
「ただありのままで秋風に吹かれるだけだ。」

『碧巌録』第二十七則

この禅問答には、『大乗涅槃経』にある「仏陀が沙羅双樹の下で涅槃に入った時、沙羅双樹が枯れ、枝葉や樹皮が落ち、ただ真実のみが残った」という喩えが前提としてあります。
ここでいう枝葉は、煩悩妄想を象徴しています。
このような問いを雲門に対して投げかけている時点で、この僧がかなりの悟りを得ている人物であることがわかります。それ故に、言外に「お前のような老いぼれに何ができる!さあ言ってみろ!」と迫るような勢いが感じられます。
この問いに対する雲門禅師も負けてはいません。
「わしの身体から発するこの輝きがわからぬか!愚か者め!」と言わんばかりの迫力が感じられる冴え渡った返答です。
禅語や禅問答は文字で表現され、今もなお残っているものですが、それが発せられた時は、まさに真剣勝負でした。
お互いが直面した瞬間、見たまま、聞いたままが勝敗を左右しました。
それまでの何十年にもわたる修業の成果が、顔つきはもちろん、全身から発せられていたはずであり、それは即ち「魂の輝き」と言えるものでしょう。
それくらい誰の目にも明らかなほどに輝いているものでなければ、修業したとは言えません。

二十歳で成人となってから三十年。
五十歳を過ぎた時、はたして松や柏のような「徳の輝き」「魂の輝き」があるでしょうか。
歩んできた時間、どのように過ごしてきたかは、歴然とわかるものです。
そこでは言い訳やごまかしなどは一切出来ません。

人生において、五十過ぎからの冬の時期。
どのような「冬」を迎えるかは、自分次第なのです。

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