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日高敏隆「大学って何?」(「人間はどこまで動物か」新潮文庫 ) 渋幕28年入試問題

どの国家であれ、国がやろうとしている教育は、要するにその国の支配者が、自分たちの権力を維持するための「人材」を、できるだけ効率よく作り出そうとしているだけのことではないか。

日高敏隆「人間はどこまで動物か」新潮文庫

日高さんは、大学教育に疑問を投げかけています。
これは、平成28年度の渋谷幕張中入試で出題されました。

自分のまわりを見ても、それは明らかだった。工業立国と、公共事業による国土改造を目指していた日本政府は、日本の技術化、工業化に役立つ人材を作りだそうと懸命になっていた。それに貢献するとは考えられない動物学などという学問は、問題にもされなかった。

日高敏隆「人間はどこまで動物か」新潮文庫

何年か前の話ですが、地方の国立大学を調べていて驚いたことがあります。それは、地方にある国立大学に「文学部」が存在しないという事実です。
工学部や教育学部、医学部はあっても、文学部はありません。
「すぐに役に立つ」「すぐカネになる」という明治以来の実学指向が、令和の世の中になっても全く変わっていないという現状に愕然としてしまいました。「文学など何の役に立つんだ」という明治からの考え方が、地方ではまだ脈々と息づいているのです。

東京の私立大学では、理系の単科大学を除けば、文学部のない大学は存在しません。
特に女子は、文学部が貴重な受け皿となっており、女子大はどこも文学部が中心と言っても過言ではありません。
このような東京の大学における文学部の実情は、「文学が何の役に立つんだ」という議論が全く成立しないことを証明していると言えるでしょう。
「花子とアン」で有名な東洋英和大学をはじめとして、明治から続く伝統と歴史のある女子大は、東京にはいくつも存在します。特にミッション系の大学は、「女子教育」にとても熱心です。
まだ男尊女卑の考え方がまかり通っていた明治時代に、「女子教育」を表看板に掲げることは、相当勇気のいることだったでしょう。
現代においても、世界を見渡してみると、「女性に学問は要らない」と声高に叫ぶ勢力が、まだまだ根強く残っています。

中国の古典である「荘子」には、「人は有用の用は知るも無用の用は知らず」という言葉があります。
「文学」は、まさに「無用の用」の最たるものと言えるかもしれません。
「人間とは何か」「人間性とはどういうものか」という根本問題に答えるのが、文学をはじめとした哲学、倫理、思想、宗教といった「人文学」です。このような分野に何の関心も持たず、敬意を払うこともなく、「文学など何の役にも立たない」と主張するのであれば、それは「女性に学問は要らない」という時代遅れな考え方と、大して変わらないでしょう。
これは「人間」を正面から捉えようとしない「精神の貧困さ」から出ている考え方に他ならないからです。

日本の国公立大学では、理系教育に重点をおき、文系の学部予算を減らす傾向があります。国益に直結するテクノロジーばかりを追究し、「人間教育」を疎かにする明治時代からの発想が、未だに続いているのです。
その点、私立大学では「人文学」の意義を尊重しています。
私が『私学』教育を重視しているのは、この点にあります。
「人間」を真っ正面から捉えようとする「人文学」を扱う『私学』こそ、人間教育をする場だと言うことができるでしょう。

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