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自己内部の黄金について 【H・D・ソロー「原則のない生活」】

なぜ、この私も自己の内部の黄金にぶつかるまで堅坑を掘りさげ、その金鉱を採掘してはいけないのか、と自問してみた。

H・D・ソロー著『市民の反抗』飯田実訳・岩波文庫「原則のない生活」P.224

19世紀はゴールドラッシュの時代でした。
オーストラリアの砂金掘りに関する文章を読んだ後、H・D・ソローは、このように自らに問うたのです。

冨を渇望するあまり、さながら悪魔と化してしまい、互いの権利などはまったく眼中にない。
ひとびとは、まるで、そちらに行けば本当の黄金が見つかるとでもいうように、カリフォルニアやオーストラリアに殺到している。
ところが、彼らは、黄金の在処ありかとは全く正反対の方向に向かっているのである。
彼らは試掘をしながら、真の鉱脈からはますます遠ざかり、自分では大成功だと思いこんだ時に、実は、不幸のどん底に落ちこんでいるのだ。

H・D・ソロー著『市民の反抗』飯田実訳・岩波文庫「原則のない生活」P.225

ソローが言っている「真の黄金」とは、自己内部の「霊性・神性・聖性」のことです。彼の著作『森の生活(ウォールデン)』でも、これについて、何度か触れています。

似たような話は、15世紀=中国の明の時代、王陽明の言行録である『伝習録』にもあります。
陽明学においては、自己の内部にある「霊性・神性・聖性」のことを「良知りょうち」と呼びますが、この良知を「精金(純金)」に譬えたところがあるのです。

先生曰く、『聖人の聖たる所以ゆえんの心、天理に純にして人欲の雑(不純物)無きのみ。
ほ、精金(純金)の精たる所以ゆえんは、但だの成色(完成した色)足りて銅鉛の雑(不純物)無きを以てなるが如きなり。
人は天理に純なるに到てまさに是れ精なり。然れども聖人の才力は、た大小の同じからざる有り。きんの分量に軽重有るが如し。

『伝習録』小田準・鈴木直治訳註・岩波文庫P.82

「人は誰でも純金の黄金おうごんのような『霊性・神性・聖性』をもっているが、ただその存在に気づいていないだけだ」というのが、陽明学の本質です。
これは禅でいうところの「仏性をさとって見性けんしょうする」ということと全く同じです。
「人は誰でもほとけになれる素質、即ち仏性ぶっしょうをもっているが、その存在に気づかないだけだ」というのが、仏教の本質だからです。
大乗仏教の目指す「衆生済度しゅじょうさいど」とは、人々を救うことなのですが、それは「現世で迷っている衆生を迷いの苦しみから救い、悟りの境地へと導く」ことを意味しています。

H・D・ソローは、東洋思想を非常によく理解していました。
『森の生活(ウォールデン)』にも、中国やインドの思想が、頻繁に登場します。
彼の「黄金」の話をみても、陽明学の「精金説」と全く同じことを言っていることがわかるでしょう。
真理というものは、洋の東西や時代を問わず、変わらないものです。
それは、人間存在や生き方、人生の本質だからです。
何千年も前から語られ、今に至り、これから先も、何年経ったとしても変わらないものと言えるでしょう。
真理は無数にあります。
だからこそ、人は生きて、それを学ぶ価値があるのです。

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