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早稲田の古文 夏期集中講座 第29回 俊恵(しゅんえ)法師

  鴨長明の歌の師は、俊恵法師と言います。『俊頼髄脳』という歌論書で有名な源俊頼の子供です。百人一首の歌人でもあり、新古今集にも採用されている歌人です。

鴨長明の歌論書『無名抄』には度々、その名が出てきます。俊恵法師は、永久元年(1113年)生まれの東大寺の僧で、京の白河の坊を歌林苑と称し、多くの歌人の集会所としたそうです。(『無名抄』久保田淳訳注 角川ソフィア文庫)

 『無名抄』では「俊恵歌体を定むること」という長い文が残されています。その中で、大江匡房の歌について

  白雲と 見ゆるにしるし み吉野の 山の花ざかりかも
「これこそはよき歌の本(もと)とは覚え侍れ。させる秀句もなく、飾れる言葉もなけれど、姿うるはしく、清げにいひくだして、たけ高くとほしろきなり。たとえば、白き色のことなるにほひもなけれど、もろもろの色にすぐれたるごとし。よろづのこと、極まりてかしこきは淡くすさまじきなり」

としています。

 この歌は優れた語句などないけれど、歌のしらべというものが端正で清潔感があり、高尚で雄大である、と言うのです。白い色は格別美しい色も光沢や輝き(金や銀など)もないけれど、あらゆる色の中で優れているといった風情である。何事につけても極限にまで高度に優れたものは淡泊で格別の面白味もないものだ、と言っているのです。

 ここにも「見わたせば 花も紅葉も なかりけり」の定家の幽玄体の理想と共通のものが、価値観の底流に潜んでいます。実は「雲」というものは、幽玄体の理想の象徴であり、後の時代の『正徹物語』にも「跡なき雪」や「雲の跡なき」といったものを「行雲廻雪の体」といって、無心なるものとしてとりあげています。(『正徹物語』小川剛生訳注 角川ソフィア文庫参照)

 思うにこれは『文撰(もんぜん)』などにある、謝霊運の「白雲幽石を抱く」のイメージであろうと思われます。人為を否定し、無為自然を理想とする老荘思想や人心や俗心を否定し、無心なるものを理想とする価値観と共通なのでしょう。人間心(にんげんごごろ)というものは、欲心に満ちているものなので、自由闊達・融通無碍なるものを理想として、「白雲」というものが大事にされたのでしょう。

 「おほかた、優なる心・言葉なれども、わざと求めたるやうに見ゆるは、歌にとりて失となるべし」とも言っています。優美に見える言葉でも、わざとらしい不自然なものは、歌にとって欠点となる、と言うのです。

「ただ、結ばぬ峰の梢、染めぬ野辺の草葉に、春秋につけて、花のいろいろを表すがごとく、おのづから寄りくることを安らかにいへるやうなるが、秀歌にて侍るなり」

と言っています。人の手で人為的に目印をつけた峰の梢や、人の手で染めたのではないような、ありふれた野辺の草葉が春や秋に花が咲き出すごとく、自然によりそうがごとく、無理なく表現するのが優れた歌だということです。

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