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早稲田の古文 夏期集中講座 第26回 藤原隆信と建礼門院右京大夫

「そのかみ、思ひかけぬところにて、よ人よりも色好むと聞く人、よしある尼と物語しつつ、夜もふけぬるに、近く人のあるけはひのしるかりけるにや、頃はうづきの十日なりけるに、『目のひかりもほのぼのにて、けしききえ見えじ』などいひて、人につたへて。その男はなにがしの宰相中将ぞ。」

建礼門院右京大夫がはじめて藤原隆信に予想もしなかったところで、「目の光もかすかで自分達の様子は見えないでしょう。」と言いよられているシーンです。世間の人よりも色好み、とはっきり書かれています。

とりとめもないようなやりとりをしたのをきっかけに隆信が真実らしく言いよってきたが、私は、世間にありがちな恋愛関係には一切なるまいと心に決めていたようです。(『健令門院右京大夫集』糸賀きみ江校注 新潮日本古典集成)

隆信の父、藤原為経(為隆とも)は出家して後「寂超」と名のって、大原の三寂(寂蓮法師らの事)と呼ばれる一人だったそうです。(同書P189解説)

母は美福門院加賀で、為家出家後、藤原俊成と再婚、成家・定家・八条院三条・建春門院中納言その他の子女をもうけたのですが、建久四年二月十三日に亡くなったようです。(早稲田文学部2018年出題問題参照)

歌人としては『藤原隆信朝臣集』(早稲田文学部2019年出題)だけではなく、勅撰集や歌合に多くの作が見られるそうです。(同書P184解説)

似絵(にせえ)の開祖とも言われ、後日白河法皇像・平重盛像・源頼朝像は隆信の作とされ、芸術上の才人であると同時に好色の人として評判の高い人で、右京大夫よりも十四、五歳年上だったそうです。(同書P184)

私達がふつう日本史と呼ばれる歴史の学習をする時、このような話は一切でてきません。右京大夫も、平家滅亡後、後鳥羽上皇に仕えたという話は『健礼門院右京大夫集』を読んではじめてわかることなのです。これからは文学を中心とした歴史を再構築すべきであると思います。

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