見出し画像

「地の声」から見える”音の個人化”ー 『宮本常一 伝書鳩のように』

 

 現代では、音楽に関する技術の発達が著しい。録音技術は興盛し、誰でも手軽に録音することが可能になった。しかも、CDや音楽プレイヤー、音楽サービスの誕生によって、どこにいても、どんな時でも音楽が楽しめるようになった。
 しかし、変化したのは、そういった音楽を取り巻く技術面だけではなく、人間の音の聞き方や環境も変化しているんじゃないか。

 『宮本常一 伝書鳩のように(STANDARD BOOKS)』という本が、そういった、“今”がとりこぼしたものや、置いていってしまったものを感じさせ、知らせてくれる。
 この本の著者は、宮本常一、という民俗学者。宮本は、フィールドワークを民俗学の調査方法として、最も重要視した民俗学者の一人だ。この本は、宮本の書き残した多くのエッセイや手記の中でも、選りすぐりの数編を集めた選集だ。


 特に印象的なのは、『地の声』という随筆だ。このエッセイは、1979年当時と昔を比べて、昔はどんな風に音が聞こえていたかということを、日本の町村の地形や土地柄の話も交えながら描き出している。(ここでいう“昔”とは、著者である宮本が幼少の頃、それよりもっと前の時代のことを指す。大体、大正以前かな。)
 宮本によると、昔、東京のある村では、20km先から鳴る太鼓の音がはっきり聞き取れたという。また、明治時代に、津波が海沿いの町村に襲いかかる直前、「ノーン、ノーン」と、どこからか聞こえる奇妙な音に気づいた人々が、高所に逃げ出して難を逃れたという話が紹介されている。他にも、山から村の遠距離にかけてのコミュニケーション手段として“歌”が用いられていた地域の話が載っている。
 これらの話を紹介して宮本は、これほど人々が音を聞き取れたのも、現代と比べて昔はどこも静かであり、人々が色々なものを聞き取る能力があったからだと締めくくっている。
 

 宮本が言う通り、現代では静かなところは少ない。どこでも音が鳴っている。飲食店、本屋、駅、歩道や道路でも、お店のBGMや信号音、車の走る音など、人工的な音が常に鳴っている。特に渋谷なんかはそうだ。聴覚だけの話じゃ済まない。タピオカでも飲みながら、渋谷を歩いてると、人間の五感全てを限界まで刺激させて1日過ごさせたらどうなるか、軽く人間実験されている気分になる。
 一方、昔の町村ではとても静かであったようだ。それも、住宅間隔や空間に余裕があり、遠くの音や微かな音でもよく通っていたと考えられる。しかし、現代の市町村では建造物が連立している。そのため、元々聞こえづらい音はもちろんのこと、かなり大きい音でも建造物などに阻害され、人々の耳に届きにくくなっている。
 

 そういえば、二年前に黒森神楽という、岩手県宮古市に伝わる民俗芸能を見に、一人旅した。この神楽は、“廻り神楽”といって、正月から冬の終わりにかけ、門出の厄除や疫病退散祝いに、地域の家々に神楽を舞に行くのが売りだった。特に、正月の家周りを“門打ち”という。


 僕は旅の最終日、この門打ちを見に行く余裕があったので、門打ちが行われるという住宅街に足を運んだ。家周りだけに、いつどこで実際舞われているかはまったくわからない。神楽をよく知る知り合いは、「太鼓の音ですぐわかる」と言っていたのでそこまで心配していなかった。しかし、いくら歩いても太鼓の音が聞こえてこない。なんとか、道ですれ違う地元住民の方に教えてもらって、神楽と合流できた。けど、結局、神楽が行われている10m圏内に入るまで、太鼓の音はぼやっとしか聞こえなかった。これも、建造物や住宅街に、音が阻まれたせいなのかもしれない。

 つまり、あらゆる音同士がお互いを打ち消し合ってしまったり、建造物に阻まれたりしてしまうので、距離が近くて、音量が勝る音だけしか聞こえないように人々の音の認識能力が変化しているのではないか、と思うのだ。選挙カーや、渋谷の大ボリューム宣伝など、音がでかければでかいほど、人間の耳にはよく響くと思われているようだ。
 

 このように、現代ではいろんな音が否応なしに、耳に入ってくる。耳は常に、あらゆる音の中から、自分が聞くべき音を選びとっている。そこで、耳に挿入し、周りの人や環境を気にせずに聞くことができる、音楽プレイヤーやイヤホンの存在が大事になってくる。聴きたい音を、ただそれだけを聞くことができる!
 昔は、録音されたものを再生する技術もなかった。すなわち、演奏ができ、音を聞くことができる人、時間と場所を確保しなければならなかった。だからこそ、周りの住民や家族といった、他人と音を共有する必要があったのである。

 例えば、盆踊りなどがそうではないだろうか。囃子手、つまり音の発生源を中心に、人々の前に据え置いて、それを人々が囲むかどうかして、共有するのが基本だ。鳴らされた一つの音を、その場の人たちで共有し、そうしやすいような場が作られる。
 

 一方、現代ではイヤホンなどを使い、自分だけの世界でいつでもどこでも音楽を聞ける。もし、となりに、テレビで水曜日のダウンタウンを見ている人がいても、自分は、浜田のツッコミに妨害されずに、イヤホンを挿してビリー・アイリッシュでもなんでも楽しめる。自分だけのプライベート空間を確保することができるようになったのだ。
 

 これらのことから、現代は、“あらゆる人工的な音や音楽が耳に入り込むので、近距離で大音量でないと音が聞こえづらくなった。そのため、自分で音楽を楽しむときはイヤホンなどを使い、プライベートを追及する必要がでてきた”という変化が起こったと言える。
 

 現代では、プライベートがより追及されるようになり、昔よりも個人が自由になったように思える。音楽の話で言えば、高音質やノイズキャンセラー機能の追求が目立つ。
 しかし、なんでも個人として済まされるようになり、音までもがプライベートの空間に閉じこもり、ますます他人や外部との繋がりが薄くなっていくようだ。
 僕は、あらゆる音が聞き取れ、誰かと音を共有できる環境を求めている。大自然の中にある、城下町で行われる、盆踊りのような場を・・・。



この記事が参加している募集

#読書感想文

191,340件

よろしければサポートをおねがいします。大変励みになります。