嘘を嘘であると見抜ける人でないと嘘に気づけないだけ、という話

 ピンとくる人にはピンときて、ピンとこない人にはピンとこない感覚の話をしたい。
 ChatGPTは嘘をつく、と言う言説を市井でも耳にするようになったが、僕はいつもその言葉に首を傾げてしまう。
 なぜなら、そんな先端技術の賜物に文句を言う前に、古来より存在する僕らの「自我」のほうがよほどたくさん嘘をついているのだから。

世界にはあなた以外にも人間が生きているということ

 まず、世界には本当にたくさんの人間が生きていて、人の数だけ脳があり、思考があり、自我があり、こころがある。そこに善悪はなく、ただ都合の良し悪しだけが存在し、大勢にとって都合の悪い思考や行動に対して制限が設けられているだけである。
 それを教科書の情報を暗記するような感覚ではなくて、目に映る現実として把握できている人は、思ったよりも少ないのだと最近知った。
 『事実として識っている』ことと『理解している』ことの間に雲泥の差があるように、世界にはあなた以外にもたくさんの人間が、あなたと同じように自分の人生を大切にしながら生きているのだということを『理解する』ことは、とても大切なことだ。
 なぜならこの世界はあなただけのものではなくて、たくさんの生命たちが身を寄せ合って生きている地平に過ぎないからである。

「そんな簡単なことはとうに識っているし、理解している」

 そう思った方は、本当に素敵な命の燃やし方をされている。周りにいる人を幸せにするし、不幸な人すら救えるかもしれない。もちろん、あなた自身も幸せなのだろう。

 直近数年は人と争ったこともなく、憤ることもないのだろう。いや、あったとしても、しっかりと相手と自分の違いを理解することに努め、間違っても「相手が間違っている」などとは微塵も思わなかったのだと思う。そんな思考が生まれる余地はないはずだ。
 同様に、自分を間違っているとも思わず、本当の自信を胸に、あなた由来の純粋な動機で行動できる。人とぶつかったとしても、他意なく、ありのまま「人としての違い」に目を向けられる方なのだろう。それならば、とても素敵なことだ。

 ……もし、そうでないのに「そんな簡単なことはとうに識っているし、理解している」と思い違いをしていた方は、どうか怒らず、なぜ聡明なあなたが、愚かにもそんな思い違いをしてしまったのかをていねいに考えてみてもらいたい。ここからは、少しそのヒントになりうるお話をさせていただく。

 人には自我が備わっている。生きるために、活動するために、創り出すために、あなたにはあなたという人格や思考、意志がインストールされている。プリインストールされているから手を加える必要なんてないし、仮に消したくても削除はできない。いつからあったのか、何故生まれたのかわからないこの自我とも長い付き合いだ。あなたもきっとそうだろう。
 さて、自我にはあなたに世界を伝える役割がある。いわゆる「認知」というもので、あなたの目や耳や鼻といった感覚受容器が受け取った外界の刺激をあなたの元へ分かりやすく伝えるのが自我の大仕事と言える。
 しかし、あなたもよくご存知のとおり自我はおっちょこちょいなヤツだ。外界の刺激をあなたに分かりやすく伝えようとするあまり、要らない脚色を加えすぎたり、削ってはならない情報を削ったり、最も多いのはあなたが傷つきそうな刺激や情報を受けたとき、あなたが傷つかないよう嘘をついてしまったりする。細かな説明は端折るけれど、例えば心理学で言う「分離脳」や「認知の歪み」などはまさにその例にふさわしい。
 愛らしく、憎めないあなたの従順なる下僕、それがあなたの自我だ。

 そんな自我のことも踏まえて、世界のことや他人のこと、自分のことを考えてみると、ほんの少しだけ見え方は変わってくる。つまりあなたの元へ寄越された刺激や情報に対して、「疑いの余地」が加わるということだ。

 僕らが生まれてから今に至るまで、一度たりともこの自我と離れた試しはない。だからついつい自我そのものを「私」と捉えてしまいがちだけれど、そんな全幅の信頼を寄せている自我が嘘をつく別の生き物だったとしたら、どうだろうか。ハリガネムシに寄生されたカマキリよろしく、我々が水場へ向かうよう誘導されているのだとして、しかし自我に全幅の信頼を置く我々はその事実に気づくことも叶わない。

 もちろん、言いたいことはよく分かる。我々はカマキリではないし、ハリガネムシに寄生されてなどいない。されていない保証もどこにもないが、ひとまず寄生の有無は横に置いておこう。
 しかし、この例で伝えたいのは「我々はなぜ自我を信じられるのか』ということだ。信じるなと言いたいわけでもない。
 ただ文字通り、なぜ私は、僕は、俺は、自我を信じている?
 冒頭で思い違いをしてしまった方は、なぜ不可思議な思い違いをしたにも関わらず自分を気味悪く思わずに済む?
 この記事も含めて、外界の刺激をあなたのために分かりやすく処理して手渡してくれる存在は、果たして誰だったっけ?

自我を疑い、手を取り合う時代へ

 少し恐ろしい幕切れとなったかもしれないが、自我というものは便利で親身な存在でありながら、平気で嘘をついてくる少し変わったやつなのだ。
 その自我を疑えるように用意された思考法がクリティカルシンキングというやつだ。論理の力で自我の嘘を見抜き、思い込みでない現実をあなたの目に映し出そうとする。
 さて、これからの時代はこれまで以上に「疑う」ことの重要性が高まるだろう。
 自我を嫌うのではなく、自我と手を取り合う必要がある。
 なぜかって、最近現れた「嘘をつく知能」に騙される前に、既に僕らは自分の脳内に巣食う嘘つきに騙されているのだから。これ以上嘘をつかれてしまったら、誇張抜きでカマキリと遜色ないんじゃないか、などと思う今日このごろでした。

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