僕の好き≠誰かの好き
突然ですが、僕はX JAPANが好きです。旋律とか曲調とか歌詞とか。音楽として自分がいいと思ったものを“好き”と言ってきました。
職場にいる同世代の女子社員と、先日ふとした会話の流れから、青春時代にどんな音楽を聴いていたかが話題になりました。
僕は迷わず「Xだよ!」って言いました。彼女は小室ファミリーやアイドルの話をしてきます。そんな中で、「Xが好きってことはメンバーの○○の好きな食べ物とか詳しいんですか?」とか「メンバーの▲▲がトラブった件とか詳しいんですか?」って聞いてきたんです。回答は『No』です。そう答えると、「えっ、私でも知ってるのにファンが知らないんだ!?」って返ってきました。逆に彼女が答えた小室ファミリーやアイドルの内部事情的なものを聞くといろいろとネタが出てきました。まぁすごいなとは思いましたけど、自分のX好きをけなされたことに少しばかり不思議な気持ちのバランスに。
Xとの出会いは小学生の時の紅白歌合戦。今までにない奇抜な装いにビックリしましたが、演奏していた『Silent Jealousy』の楽曲の美しさに惚れ込んで今日まで好きでい続けています。多少はメンバーの素性も調べたりして知っている部分もありますが、その彼女が求めるレベルの深さのあるネタは僕の中にはありません。
でもそれって、Xを好きでいることに必要な要素じゃないですよねぇ?そこまで知らないとX好きって認めてもらえないのかよって思っちゃいました。
そういったゴシップやスキャンダルを好き好んで情報を集めること自体が好きなヤツもいれば、僕のようにその人々の活動そのものを好きな人もいます。彼女のような人たちの価値観の中で僕の価値観を判断してほしくないなと強く思いました。
もうひとつお話を付け足すと、僕はCHAGE&ASKAも小学生の頃よく聴いていました。毎日のように音楽番組に映し出されて、ランキングも上位。彼らの音楽を聴かない日がないくらいどこかしらで音が鳴っていたと思います。そのASKAさんが近年では逮捕に至るような悪事を働いてしまいました。ですが、いろんな報道を見たり聴いたりしていて思ったのが、ASKAさん本人のことを“悪い人”と報じるものの、その作品である楽曲を否定する報道はほとんどなかったと思います。
僕が同僚の女子社員に言いたいのはそういうことです。メンバーがどうあれ、その人が生み出した作品そのものが好きな僕にとって、メンバー自体は二の次の話なんです。だから作品第一主義の僕にとってはそのアーティストを取り巻くお話はどうでもいいのです。
別の例えを出しますが、日本人に「英語しゃべれる?」って質問をすると、まったくしゃべれないって答えが返ってきます。流暢にペラペラ会話ができないとしゃべれたことにならないと思っているからです。とたんに完全主義者になってしまうようです。英語を得意分野とする英語の先生ですらコンプレックスに感じていたりすると聞いたことがあるくらいです。
ところが、外国人の方に「日本語しゃべれますか?」って聞くと「もちろん!」と返ってきます。どれだけしゃべれるのかと思いきや「スシ!テンプラ!ニンジャ!」という知っている単語をいくつか言えるだけ。それでも彼らは“しゃべれる”という認識で自信を持ってそういう単語を並べます。
要は気の持ちようです。
どれだけの要素を持って“自分はこれが好きだ!”って思うかは、やっぱそれぞれの心の中の尺度によるもの。
それぞれ違う尺度で見ている、聴いているものなんだから、他人の好き嫌いにとやかく言うこと自体間違いなんだと思います。
今はいろんな価値観がある時代です。自分の自由も守られたいし、周りのみんなの自由な発想も守り広げていきたい。“僕の好き≠誰かの好き”だけど、そんなそれぞれの自由な発想同士をうまく掛け合わせてよりよい未知なるものを発見し築き上げていけたら最高の未来になりそうです。
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