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幽体離脱ができなくてよかった。

羽根がもう駄目らしい。自分でもわかっているはずなのに、羽ばたかせることをやめない純情さに目が離せないどころか、脳の一部を抉られた気分で見ていた。


虫が苦手な大きな理由は羽根である。外に出ている羽根の模様、羽音、そのどれもに拒絶している。そう、夕方の鐘の音までが楽園だった幼少期にカブトムシがさわれたのもそれが理由だと思う。セミやトンボももちろん近寄りがたいけれど、私の視線を独り占めしたその種類が特に駄目だった。蛾だ。

反射的に走り出してしまうほど苦手なその生き物に、自分の残酷さを知らされるとは思いもしなかった。

何度飛ぼうとしてもひっくり返るか、飛べても数センチ。これは一定の距離を保てば自分に飛んでくることはない。その蛾をしゃがんで見ていたのだけれど、自分でも不思議だった。頑張れ、頑張れ、と声には出さず繰り返していたのだ。飛べたら飛べたで走り出すくせに、もう飛ぶことはないと信じているからこそ生まれた、頑張れ。矛盾の応援に意味があるとしたら、私はただ、己の変化に魅せられていた、ただそれだけではないか。

きっと人生で初かもしれない。私はその種類まで調べていた。ゴマフボクトウというらしい。スマホを遠ざけながら細目で検索していたのは書かずともバレている。

ひっくり返ってしまうと、起き上がるのは得意なようで、羽根で体を押し上げてくるりと起き上がる。そんな姿さえ、可愛らしいと思ってしまった。動物園で檻の外から虎を見ているようなもの。応援や愛嬌が生まれたとしても、安全圏から見ているからこそ生まれた感情。

飛べない。私に触れない。その二つが安全圏の条件かしらと思ってみる。それが条件ではあるけれど、それを瞬時に判断できることが前提である。例えば外であれば、よそ見をしながらでも避けられる。けれど、狭い場所、例えばお便所の中に入りすでに便座に身を預けてしまってから蛾の存在に気づいた場合、一切動いていなかったとしても動揺して慌てて下着を上げる。あの蛾は飛べなかった、と気づくまでもなく、運が悪いと思うだけ。いや、運が良いのではないか。矛盾の応援をして恐ろしい目を向けることなく過ぎたのだから。

逆上がりができるようになりたいと失敗を繰り返し、何度も何度も挑戦している少年をAが見ている。
「そんなことばかりしてないで早くお勉強しなさい」
としか言わない親が公園に向かって歩いてきているのが見えているのに、知らせもしないでじっと見守っている。少年が逆上がりに成功しても
「はい、帰るよ」
としか言わない親なのだ。それを知っていて、Aはじっとただ見守っている。
私はこのAと同じ目をしていたに違いない。

頑張れ、頑張れ、と祈っていたあの時。幽体離脱ができなくてよかった。あんな、優しさを纏った悪魔の目の自分を見てしまったら、私は蛾を見る度に悪魔を思い出してしまう。

こんなところへ入ってきてしまって。外にいれば世界の自由は変わらなかったでしょうに。だってあなた、店へ入ってきた日は天井に居たじゃない。どうしてか、気づけば地面で踠いていたけれど。そうなってしまっては外も内も、どこへ歩いたって同じなのよね。ならせめて、涼しい場所に居たかったのかしら。

最後はどんな人間の靴の裏だったのか。

頑張れ、頑張れ、が届いていないことを祈る。

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