私的領域 公的に対する「私的」とは / 「人間の条件」(ハンナ・アレント)をド素人が読み進める(10)【第2章-8】
前回
1 「私的領域」の発想 (「公的領域」と対としてみる)
今回は、「公的領域」に対する「私的領域」を考える。
この点については、まず、「私的」“private”はもともと「欠如している」という観念を含むというところから、話がスタートする。
つまり、公的領域に不可欠なものが「奪われている」(deprived)という発想で考えることがポイント。
具体的には、前回、取り上げた公的領域の特長である
・他人によって見られ聞かれることから生じるリアリティ
・人々を結びつけると同時に分離させている、矛盾しているようだがいい感じの領域
・生命そのものよりも永続的な可能性を達成すること
を「奪われる」ということになる。
ここで、私的領域と公的領域には厳然たる区別があったことを思い出してみる。
古代ギリシャでは、言論と活動だけが物事を決定する政治的領域(公的領域)に立ち入るのが命がけであった。
この公的領域に対する「欠如」を意識し、その対比として「私的領域」を見てみる。
私的領域は、炉辺の暖かさと家庭生活みたいなイメージ。
ローマでは、私的領域において、芸術・科学が発展した。
しかし、それでも私的領域の位置づけは、公的領域に対する「避難場所」で、公的領域の「代用品」でしかなかった。
この「私的領域」の消極的な定義というか、「公的領域」と「私的領域」の関係性は押さえておきたいと思う。
この関係性は、最終的に、近代以降の大衆社会に至る過程で、「公的領域」も「私的領域」もどちらも破壊されるという経過をたどっていく。
整理すると、以下のような流れ。
① キリスト教の勃興 私的領域が「欠如」であるという意識の低下
キリスト教が勃興すると、万人はおのれの仕事に専心するようになった。
つとめて落ち着いた生活をし、自分の仕事に身を入れ、切望すべき対象は、名誉と力ではなく、人々の安寧に向けられた。
そのため、「私生活」が「欠如」であるという認識は、ほぼ消滅した。
② 資本主義の勃興 公的領域が国家規模の「家計」に変貌した
資本が社会的領域に浸透すると公的領域は、非常に限られた統治の領域に変形し、死滅へと向かっていく。これは、後述のとおり、金銭が重要視され、「財産」と「富」の区別がなくなったことが関係してくると思われる。
③ 大衆社会の到来 大衆社会は、公的領域ばかりではなく、私的領域も破壊した
私的領域は、公的領域に対比される概念であり、公的領域の裏返しであったため、公的領域の崩壊は、同時に私的領域も崩壊する運命にあることを意味した。
大衆社会に至り、公的領域が最終的に消滅すると同時に、私的領域に一掃される。
大衆社会は、最終的に人びとから、世界における自分の場所ばかりでなく、私的な家庭まで奪ったともいえる。
このようにして、公的領域と私的領域は最終的にいずれも死滅した。
そして、この問題を考えるに当たっては、
私有財産の問題
を避けて通ることはできない。
2 私有財産 〜「財産」と「富」の違い
アーレントは、私有財産が、公的領域を破壊し、私的領域をも破壊した重要なファクターであると指摘している。
ここでは、「財産」と「富」(他方では、「無産」と「貧困」)の違いを押さえておくことが求められると思う。
この違いはわかりにくい。
なぜなら、公的領域が明確に存在した時代、「財産」と「富」は、一人前の市民になる条件として「同じような役割を果たしていた」からである。
しかし、「財産」と「富」は本来無関係なものであるとアーレントはいう。
(1)「財産」と「富」の原始的な意味
アーレントが本書で定義する「富」は、
「社会全体の年収に対する彼の分け前」
とのことである。
つまり、ざっくりお金的な意味合いというイメージで捉える。
一方、アーレントは「財産」が
「政治体に属すること、公的領域を構成した諸家族のうちの一つの長となること」
だったという。
一般的な「財産」とは違う意味合いな気がするが、ここでは、前回確認した公的領域の「現われ」を財産として捉えているのではないかと思う。
言い換えれば、「公的領域(政治的領域)への参加資格」ともいいうるかもしれない。
これは、外国人や奴隷はいくら私的な富をたくさんもっていても政治的領域に自分の場所をもつことはできないということを意味する。
一方で、「公的領域(政治的領域)への参加資格」である財産を得るためには、公的領域の裏返しである「私的領域」もまた必要であった。
既に述べたとおり、ポリスは、公的領域と私的領域の明確な区別を旨とする。
明確な区別が存在するということは、明確な境界線が存在し、それぞれがちゃんと存在していることを必要とする。
公的領域が政治生活を保護し、私的領域が生物学的な生命過程を保護するという状態がそれぞれ存在し、境界線が別れていることが、政治的動物たり得るために必要不可欠な環境であったということになる。
(2)私的な「富」の政治的意味
一方、私的な富が政治的意味を見いだしはじめたのは、これとは別の起源である。
すなわち、各人は、生きるために必要なものを、私的領域の中で手に入れる必要があった。
そして、公的領域への参加資格である「財産」を手に入れるためには、私的領域で富を蓄え、消費手段を得る仕事をする必要がなくなった状態になる必要があった。
公的生活は、生命の緊急の欲求が満足されたあとになって初めて可能となるものであったのである。
この意味で、財産を所有している状態(公的領域へのパスポートを持っている状態)となるために、生きるために必要なものが満足されている状態、となる必要が生じた。
「富」があって、生計を心配する必要がなくなっていなければ、「公的領域」に参入することができなかったという意味で、ここから「財産」をもっているものは「富」をもっている必要がある、という状態が発生していった。
このような共通世界が出現し、都市国家が勃興して初めて、私的所有が目立って重要な政治的意味を帯びるようになった。
このときは未だ財産は、公的領域(政治的領域)に参入するためのパスポートであるから、財産をより大きくしようという発想はない、それはむしろ自分の自由を犠牲にする行為というふうに捉えられていた。
(3)近代の私有財産
(ここの論旨はかなり行間読みが多そうな気がするので、自信がない・・・)
私有財産が神聖化するのは、近代に至ってからである。
農業社会となり、収入の源泉としての富と土地が重なり合ったとき、全ての私有財産が神聖な性格を帯び、私有財産の保護が謳われるようになった。
このとき、私有財産は、すべて私有の富としか見なされなくなり、区別がなくなる。
しかし、「社会全体の年収に対する彼の分け前」である私有な富の巨大な蓄積は、土地収用等に見られるように、私有財産を犠牲にすることにつながる。
(これは、資本主義による貧富の差の拡大等を意味しているのかな)
そうだとすれば、この問題を改善するためには、私有財産制を廃止するしかないかもしれない。
しかし、私有財産制を完全に廃止すれば、暴政というそれよりももっと大きな悪が発生しかねない。
財産とは盗みなりといったプルードンでさえ、悪を正すために全財産を没収することをためらったのは、このあたりの悩みにある。
では、どうしたらいいのか。
こういう感じの問題意識で次に進むのかな、たぶん。。。
ということで次回。
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