公的領域とは何か / 「人間の条件」(ハンナ・アレント)をド素人が読み進める(9)【第2章-7】
前回
めっちゃあいだが空いてしまいました。あきらめずにがんばろうって思い直しました笑
はじめに
最近、解説本を買いました。
すごく詳しい解説です(500ページ近くあります)が、講義形式になっていてわかりやすいです。
原典の訳も参考に読解をしています。この本も参考にしながらよみ進めれば理解も深まりそうです。
公的領域とは何か
さて、今回は、私的領域と公的領域について掘り下げていきます。
前回は、古代ギリシャのときは、私的領域と公的領域は明確に区別されていたが、社会的なるものが勃興したあとは、その区別があいまいになっていったということを確認しました。
今回は、改めて公的領域とは何かを考えてみる。
アーレントは、公的について、2つの側面を指摘する。
「公示性」と「世界そのもの」である。
どっちもわかるようなわからないような感じだが、たぶんこんな感じだと思うことにする。
公示 (現われ)
「公的」と言えるためには、公に現れていなければならない。
「現れる」ためには、他人によっても、私たちにとっても、見られ、聞かれることが必要である。
なんか持って回った言い方であるが、そりゃそうだよねと素直に受け入れることにする。
アーレントは、現われがリアリティを形成するという。
ここも一瞬、本当にそうなのかと思いたくなる。
ただ、ある事象が、内心にとどまっていて、語られないのであれば、それは主観にとどまったままなので、リアリティは生まれようがない。
いいかえると私たちが見るものを、やはり同じように見、私たちが聞くものを同じように聞く他人が存在するおかげで私たちは、世界と私たち自身のリアリティを確信することができる。
個人的経験は、現われがなければ、リアリティを持たない。
つまり、個人的経験は、物語として語られるとか、何かしらの形で表現されなければ、リアリティを持つことはないとアーレントは言っている。
この点、もっとも、私的なものは肉体的苦痛である。
肉体的苦痛は激しい感覚だが、最も私的で、最も伝達しにくいと言える。そして、身体的苦痛にあるとき、私たちは、リアリティに対する感覚を失い、リアリティは真っ先に忘れ去られる。
公的領域は、魅力的にはなり得ないとアーレントはいう。
公的領域は、魅力的だが不適切なものをつなぎ止めておくことができないのである。
逆に言うと、私的な領域にのみ存在できる魅力的だが、公示されようがないものがある。
例えば、「愛」。
愛は、それが公に晒されたとき、世界の救済のような目的に用いられたとき、ただ偽りとなり、堕落する。
あるいは、「ちいさなもの」。
こういうものは、公的領域にでは不適切とみなされているために、本質的に私的な性質は変わらない。
たぶん、「ちいかわ」みたいなやつだろう。ということで納得しておく。
世界そのもの
次に、「公的(パブリック)」という用語は、世界そのものを示しているとアーレントはいう。
世界とは、私たちすべての者に共通するものであり、私たちが私的に所有している場所とは異なる。
ここでいう世界は、地球とか自然といった意味ではなく、人々が行き来する人工的な世界を指す。つまり、いわゆる「公共空間」ということなんじゃないかと思う。
「共通世界としての公的領域は、私たちを一緒に集めるけれども、同時に、私たちがいわば体をぶつけ合って競走するのを阻止している」とアーレントはいう。
つまり、共通世界としての公的領域は、「人々を結びつけると同時に分離させている、矛盾しているようだがいい感じの領域」を作っているということではないかと思う。
大衆社会では、これが失われてしまった。つまり、人々は、結びつくこともなく、互いに完全に無関係となってしまった。
なお、公的領域が失われたあと、人々を相互に結びつける絆を発見することがキリスト教の政治的課題であった。キリスト教の「同胞愛」は、公的領域ではないが、それに代わるものとして、人々を相互に結びつける機能を果たしていた。
この人々が集められるが、ぶつからない感じのいい感じの共通世界が、公的領域の世界そのものと思うことにする。
共通世界の終わり
ここまでの流れ的に、共通世界は、近代からの大衆社会で終わってしまったよね、というんだろうなということが予想できる。
本章の最後は、「共通世界の終りは、それがただ一つの側面のもとで見られ、たった一つの遠近法において現われるとき、やってくるのである」とされている。
「共通世界の終わり」。なんとなくこれまでの流れて見えそうだが、確認しておきたい。
2点ほど。「不死の努力」と、「公的称賛」の変化である。
一点目。公的領域を存続させるには、どうするのか。先ほどの「公示」(あらわれ)と「世界そのもの」を踏まえ、アーレントは、公的領域には「永続性」が必要という。一代で終わる公的領域はあり得ないなのである。
これは、ギリシャのポリスが命がけでやってきた「不死」への努力である。
現代は不死に対する関心は失われている。
むしろ、「私的な悪徳と全く同じに見られている」とアーレントはいう。(でも、これはしょうがないんじゃないかな?)
二点目。
公的領域のリアリティは、どこにあるか。
アーレントは、「無数の遠近法と同時に存在する場合に確証される」という。
現代的な言葉でいうと「多様性」だろうか。
他人によって見られ聞かれる(公示・現われ)の公的領域が成り立つのは、全ての人がそれぞれに異なった立場から見聞きをしているからである。
さきほどの「人々を結びつけると同時に分離させている、矛盾しているようだがいい感じの領域」は、立場の相違やそれに伴う遠近法の相違にかかわらず、全てのひとが同一の対象に関わっていることによって成り立つ。
一方で、社会的なるものが勃興した後、この公的領域は解体される。
社会的なるものが勃興したあと、社会的領域では何が「客観性」の基盤になったか。
「金銭」である。
「客観性」の唯一の基盤は、あらゆる欲求を満足させるための公分母としての金銭となったとアーレントはいう。
大衆社会で、金銭的報酬が公的称賛の対象になったとき、世界は、ただ一つの側面で見られ、たった一つの遠近法で現れるようになった。
このとき共通世界は、解体し終わりを迎える。
この対比の中でアーレントの問題意識がだんだん見えてきた感じがします。
ということで、次は「私的領域」へ。
(つづけられるかな・・・)
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