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不死と永遠のちがい / 「人間の条件」(ハンナ・アレント)をド素人が読み進める⑤【第1章-3】

前回

不死と永遠の違いを考える


 <観照的生活>VS<活動的生活>の続き。
 思考の人と活動の人の相反する原理である。

 アーレントは、この原理を対比するのに、一番簡単な方法が、不死(イモータリティ)と永遠(イターニティ)の違いを考えてみることだよという。

 どういうことか。


不死 死なないこと 動的なもの

 不死とは、時間における耐久性、この地上と世界において死ぬことのない生命とアーレントいう。
 いきなりスピリチュアルな感じがするが、ここでは不死に向けて人間は努力してきたということに主眼がある。その努力は動的なものといえる。

 宇宙では万物が不死である、しかし、その中で人間だけが死ぬ。
 ここでは、動物は繁殖するのでその種自体は、円環性があるが、人間は、個体差があるので、繁殖によって、不死の生命を保証するわけではないとされている。
 宇宙が円環的であるのに対して、人間は生まれ死ぬ直線的な存在である。

 このことを人間の可死性と呼んでいる。

 人間の可死性に対し、人間は、不朽の痕跡を残しうる能力によって不死を獲得しようと努力した

 不死への努力が、政治的生活である。そして、その起源がギリシャのポリスと言われている。

永遠 絶対的静の極み 真理

 永遠は、いかなる活動力とも交わらない究極の静である。

 ちなみに、人間は、永遠を何らかの痕跡に残そうとした場合、その瞬間<活動的生活>に入ってしまう。
 この時、思想家は、すでに何らかの挙動に出ているので、永遠ではなく、不死を選択してしまっている。無理ゲーである。

 そうであれば、永遠を志向する場合、何もできない。永遠なるものの経験はある意味一種の死である。宗教的な悟りを開いているような感じだろうか。
 
 永遠を志向するのは、〈観照的生活〉ということになる。


ヒエラルキーの変遷

 なぜ、本書において、アーレントは、<活動的生活>にこだわろうとするのか
 
 簡単に歴史的変遷をみてみる。

 まず、〈活動的生活〉のほうが先に発生した。
 その発生の起源は、ギリシャのポリスであり、〈家族的領域〉に対して生まれた〈政治的領域〉である。
 
 しかし、〈政治的領域〉の政治的生活は、必ずしも人間の高い活動力を満足させるものではなかった。
 
 活動的生活が衰退した背景は、ローマ帝国の滅亡とキリスト教の教義にある。

 すなわち、人間は、ローマ帝国の滅亡により、<活動的生活>によって不死を獲得することが不可能であることを知った。
 そして、人々の関心は永遠の個体の生命を説くキリスト教に向かった。

 この2つの出来事により、現世における<活動的生活>による不死の努力は忘れ去られ、永遠を志向する〈観照的生活〉が不死に向かって努力する〈活動的生活〉の上にくるようになった。

 中世においては、〈観照的生活〉が〈活動的生活〉の完全に上にあったという。中世では、教会がトップだったというイメージは確かにある。


 こんな感じである。


 そして、近代でまた状況は変わる。
 
 この伝統的ヒエラルキーは「転倒」した。
 すなわち、<活動的生活>が、<観照的生活>に対し、逆転した。

 しかし、古代ギリシャに端を発する<活動的生活>の源泉はよくわからず忘却されたままだったので、アーレントによれば、<活動的生活>は、アリストテレスの時代のようには復活はしなかった。

 そのため、マルクスやニーチェが企図した「転倒」は、不十分だったようである。。。

 では、その復活しきらなかった<活動的生活>の源泉とは、いったい何だったのか
 ここに本書でのアーレントの関心があるのではないだろうか。

 これを紐解くには、古代ギリシャまで遡るしかない。

 いよいよ、古代ギリシャへ。だんだんと根源的なところに踏み込んでいきそうである。

 ということで次回。



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