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「政治的動物」と「社会的動物」 / 「人間の条件」(ハンナ・アレント)をド素人が読み進める(6)【第2章-4】

前回


ここから第2章。番号は通し番号になっています。

話題は古代ギリシャへ・・・

「社会的」と「政治的」の違いを考える


「人間は政治的動物である」とアリストテレスは言った。

 ここでは、政治的動物と社会的動物は同じなのか、違うのか、
という問題意識を持ってみようと思う。

 アーレントによれば、どうも同じようなものだと考えられた時期もあるような感じだが、最終的な結論は「違う」ということだ思う。

 ただ、本書を正確に要約するのが目的ではないので、以下は、自分なりにつらつら書く。


 社会というのは、政治よりも広い概念なのではないかというのが、率直な印象である(社会の授業の中の一つに政治・経済がある)。

 古代ギリシャでは、もともとあった家族を中心とする自然的な結合に対し、それと対するものとして政治的組織が発生した。これが、ポリスである。

 家族的組織からの派生として、ポリスが生まれたというのは、少し意外な感じがする。なんとなく今は、社会が決めたルールや慣習にしたがって、家族のあり方みたいなものが規定されている気がするので、社会の方が先にあったかのような感覚がある。

 しかし、よくよく考えてみるといきなり社会があるわけではない。起源は、家族から始まったというのは確かに考えてみればそうである。

 そして、家族のなかで、権力関係、支配・被支配関係が生まれる。それに対するアンチテーゼとして政治的組織としてのポリスが誕生した、ということになる。

 ここでは、ギリシャのときは、「社会的」よりも先に「政治的」があったということ、「政治的」は「家族的」から分かれた概念であったということを、とりあえず押さえておこうと思う。


言論と活動


 「政治的」を構成するものが、「言論」と「活動」
らしい。

 これに対比される「家族的組織」は、「言葉」と「説得」ではない前政治的なものとなる。
 つまり暴力による強制、家長の絶対的な専制支配があり、ポリス側から見たら野蛮ということである。

 もっといえば、「言葉」と「説得」だけによって決定されるのが「政治的」ということになる。

 そうすると、ここで言う「政治的」というのは、なんというか極めてピュアな政治観ともいえそうである。

 これは、よくよく考えてみると画期的である。だって、「言葉」と「説得」だけで、納得し、納得される関係なんて今でもなかなかないじゃないですか(笑)
 純粋に言葉と説得でお互いに納得し、納得される関係、そんな関係がはたして可能なのだろうか。
 それが成立していたのが、古代ギリシャのポリスであったとすれば、これはすごいことだったんじゃないかと思う。

 本書を読むと、一見、なんで、急にギリシャやねんという印象がある。
 が、この画期性にアーレントが着目をしたということであれば、ギリシャの位置づけは、よりはっきりしてくるのではないかと思う。

 一方、「社会的」はどうか。
 「社会的」にも、言論や活動という要素は含まれていそうである。
 しかし、「社会的」は、それだけではないような気もする。もっとぐちゃぐちゃした感じがする。

 この微妙なズレを、正確に整理しようとするとなかなか難しそうである。たぶん、この先でそういう話もあると思うので(※ぶっちゃけちょっと読んだからね)、ひとまずこの先を見ていくことにする。

※ 読み進めるという挙動は、読み、文章化し、公開するという経過をたどる。この点、文章化するまで先を読んではいけないというルールを自分に課しているわけではないので、この文書を作成しているタイミングで読みは、ちょっと先まで進んでいる(まだ、全部読んでいないけど)。
 それゆえ、非常に中途半端な理解の状態で文章化をしているはずである。間違っている可能性もある。
 この文章化のタイミングってある意味このときしかないよなとふと思ったが、それは全部読み終わっていてもまた然り。結局、いつ発出したとしても、そのときは、そのときしかないので、まあそれもリアリティがあっていいかなと思ったりもする。


 何はともあれ、話は、まず、ポリスから始まった。

 ポリスは、前政治的な「家族的組織」から派生した「政治的領域」として生まれた。
 「社会的領域」が生まれるのは、もう少しあとのことである。



 ここから現代の「公共」にどうつながっていくのか、素人なりになるべく腹落ちできるよう頑張って先に進んでいきます。。



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