本を語るには本を読んでないほうがいい? ピエールバイヤール著、大浦康介訳「読んでいない本について堂々と語る方法」②
読んでない本を語る
割と誤解を招くかもしれませんが、著者は「読んでないのに本を語る」行為にとても肯定的でした(皮肉と捉える向きもありますが、こう読んだ方が希望が持てる(笑))。
一見、「読んでないのに本を語る」なんてダメな気がしますが、そんなことはないよ、むしろそっちの方がいいとすら言ってくれます(皮肉と捉える向きもありますが、こう読んだ方が安心できる)。
「読んでないのに本を語る」が肯定されるのであれば、「本を通したコミュニケーション」が、本を読んでない人でもできる。
コミュニケーションの可能性が広がります。
そして、著者は、そっちの方が創造的とすらいいます。
つまり、著者は「読んだ」の外側=「読んでない」に成立するコミュニケーションを捉え、肯定し、そこに創造性を見いだせるとまで言っていると思います。
それは、ろくに本を読めなくて悩んでいる人に、安心感と肯定感を与えてくれるのではないでしょうか。
ノウハウ本と見せて、読書論を展開しつつ、実は、コミュニケーション論だったのかも…
と、予想以上に深みのある一冊です。
<内なる図書館>と耳の聞こえない者同士の会話
著書の中に、『第三の男』の話があります。
「本」じゃなくて「作家」の話なんですが、細かいことは気にせず、面白いので挙げてみます。
ちなみに私は『第三の男』を読んだことがありません。
主人公のマーティンズは、バック・デクスターというペンネームで「西部もの」の小説を書いている小説家。
このペンネームがきっかけで、英国文化交流協会で崇拝されている、もうひとりの大作家ベンジャミン・デクスターと混同され、「本物」のデクスターとして講演をさせられるというくだりです。
デクスターことマーティンズは、聴衆から「影響を受けた作家は誰ですか」と聞かれたので、「西部もの」作家の「ゼイン・グレイ」の名前を挙げます。
当然、参加した聴衆はポカン。
となりにいた協会関係者のグラビンが、「これはデクスター先生のご冗談。ゼイン・グレイは、低級な大衆小説家です」みたいなことを言って、逆にマーティンズはイラッ(笑)。
でも、なぜか聴衆はマーティンズの発言に、深い感銘を受けます。ある聴衆は、封筒の裏に「ゼイン・グレイ」と書き留めまでする。
うまくいった理由は、2点。
① マーティンズが堂々としてたこと
② 彼が置かれたベンジャミン・デクスターという立場に「権威」があったこと
多くの聴衆は「ゼイン・グレイ」を知らない。一方で、マーティンズは、英国文化交流協会で崇拝される文学を知らない(知る気がない)。
まさに「耳の聞こえない者同士の会話」が繰り広げられます。
この対話状況について、著者は以下のように分析します。
自分の<内なる図書館>と相手の<内なる図書館>
この書物の集合体を著者は<内なる図書館>と名付けます。
それは、<共有図書館>の下位に分類される集合体で、個々の読書主体に影響を及ぼし、あらゆる人格を形成する主観的部分といえます。
(共有図書館について)
われわれの大切な書物を秘蔵する<内なる図書館>は、会話の各瞬間において、他人の<内なる図書館>と関係を持ちます。
著者は、相手の<内なる図書館>の本を中傷するような発言は、アイデンティティを傷つけるものとして注意喚起をします。
『第三の男』の例は、マーティンズの<内なる図書館>と英国文化交流協会の<内なる図書館>が対話によって絡み、緊張感とユーモアをもたらしています。
このあたりからも読まないで語るコミュニケーション論が展開されていく感じがします。
<バーチャル図書館>で読んでない本を語る
ここまでで
<共有図書館>のなかの位置付けが分かっていれば、読んでいなくても本を語れる
ひとりひとりに<共有図書館>の主観的要素としての<内なる図書館>があり、対話において他人の<内なる図書館>と接触することで、コミュニケーションが生まれる
ことがわかりました。
ここから、さらに、本書は「むしろ読んでないくらいの方がいい」と思わせる論を展開をしています。
『ハムレット』を読んだことがない
別の例で、『交換教授』という本の中に出てきたゲームの話があります。
このゲームは、「自分がまだ読んでない有名な本を挙げ、既にそれを読んだ他の人一人につき一点を獲得する」というゲームで「屈辱」(笑)と命名されたゲームです。
自分の無知を晒した方が、勝てるというゲームです。
大学英文科のリングボームという教師は、このゲームに勝ちたいという気持ちと無教養と思われたくないという恐怖心をもっています。しかし、リングボームは、マニアックな本ばかり挙げて、最下位に。
この状況に耐えられなくなったのか、リングボームは不意に拳でテーブルを叩き、『ハムレット』!と発言します。
リングボームは、映画は見たことあるが、原典は読んだことがないとのことでした。
それに対して、まさか先生が『ハムレット』を読んだことがないなんて、ご冗談でしょうという話に。それに対し、リングボームは激怒、その場は興ざめてしまうというくだりです(そのあと、リングボームは、大学英文科の終身在職権の審査に落ちてしまう。『ハムレット』を読んでないから)。
著者は、リングボームの過ちについて以下のように指摘します。
書物に関するこのコミュニケーション空間を<ヴァーチャル図書館>と著者は呼びます。
これはイメージの空間、虚構の空間、遊戯的空間であり、幻想であるから、あいまいさや空白、欠落が許される(というかそれで成り立っている)と著者はいいます。
リングボームの過ちは『ハムレット』を読んだことがないと真実を述べたことで、読んでない本についても語ることは許されるという<ヴァーチャル図書館>において、本を真に読んでいるのかいないのかという自分の内密をいきなり暴いてしまい、<ヴァーチャル図書館>を暴力的な空間に変えてしまったことだったと著者は述べます。
相手と対話するときに、あいまいさや空白、欠落を認め、それを前提にして語るというのは、「読んだことがある/ない」「知っている/知らない」を超えたコミュニケーションのあり方の本質に触れた指摘ではないでしょうか。
そして、創造へ・・・
そして著者は、あいまいさを許す<ヴァーチャル図書館>のなかでは、「むしろ、読んでない方がいい」という論を展開していきます。
そもそも、ある本を読んだ後、それについて語ろうととしたとき、その本についての語りは既に<ヴァーチャル図書館>という不確定な空間のなかにあります。
それは、語り手がすでに自分で話を作り出しているともいえます。
そうすると本について語ることは、既にあいまいな<ヴァーチャル図書館>の中の創造といえます。
本を読んでいる者も読んでいない者も、望むと望まないとにかかわらず、書物創造の終わりのないプロセスに巻き込まれているといえます。
著者は、真の問題は、そこから如何に逃れるかではなく、それを如何に活性化し、射程を広げるかであるといいます。とても前向きです。
読んでない本について語ることは、創造であり、他人の言葉の重圧から解放されて独自のテキストを創出する力を見いだすということになります。
そうであれば、逆に創造も書物にあまり拘泥しないと言うことが大事になっていきます。
だから、「むしろ、読んでいない方がいい」。
ここまでくると、なんか読んでない本を存分に語っていいような気がしてきます(笑)
まとめ
本書は、「読んでいない本について堂々と語る」ことをとおして、本を読んでいる人にも読んでいない人にも、本を通したコミュニケーションができること、そして、誰にも創造の世界は開かれていることを気がつかせてくれる、そんな本ではないかと思います。
私もまだちゃんと読めてないとか怖じ気づかずに、読めてない本を堂々と語っていこうかと思いました(笑)。
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