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広告と哲学 ほんとうの「哲学」の話をしよう(岡本裕一朗×深谷信介、中央公論新社)

Amazonアソシエイトの審査に挑戦してみます

 今日から6月。

 連続投稿も40日を超え、なんか新しいことに挑戦してみようということで。

 記事がたまってきたし、フォローさせていただいている方が、何名かやっているのを拝見して、Amazonアソシエイトにチャレンジしてみようと思いました。
 今までにやったことがない試みなので、手探りですが。。。

 投稿は今まで通りやっていければと思います。今日はいろいろ設定に時間がかかり8時過ぎたけど。


 ただ、Amazonアソシエイト・プログラムに登録するということは、「Amazon のアソシエイトとして、〇〇〇〇は適格販売により収入を得ています」という文言を入れることになるので(実際はまだ収入を得ていないから「参加しています」にしようと思います)、このnoteが多少ですが広告的性質を帯びるということになります。

 この「広告」になるというのはどういうことだろう。

 ということで、そもそも「広告とは何か」、みたいなことが書いてある本はないかなと探してみました。

 しかし、以外とない。

 ウィキペディアによると「広告」とは、「不特定多数の人々を対象に、商品、サービス、アイデアなどの存在、特徴、有意性を知らせ、対象の行動を変更させることを目的として、広告主が料金を支払って行うコミュニケーション」とあります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%91%8A


 広告は、どうやって広く知らしめるか、マーケティングとかどうやったら広まるか、どうやって広めさせるかという方法論の話が多く(まあ当然ですが)、「そもそも広告とは何なのか」ということが書いてある本がすぐに見つかりませんでした。

 そんな中で見つけたのがこの本。

※Amazon のアソシエイトによる広告を含みます。

 ほんとうの「哲学」とありますが、読んだ内容としては、「広告と哲学」「広告の哲学」というのがしっくりきます。

広告と哲学

 本書は哲学者(岡本裕一朗)と広告マン(深谷信介)が、それぞれの領域から対談します。

 本書は、哲学と広告に、共通点が多いと言います。

 「広告」に関するいろいろな話題に、哲学でよく言われる論点や概念が縦横無尽にどんどんあてはめられていく感じです。
 この縦横無尽な展開は、専門性と深い理解を持つ二人の対談という形式によって可能になっていると思います。

 そうはいっても、一般的な哲学と広告に対するイメージは正反対です。
 一般的なイメージの哲学は、哲学者が、外界との関係性を絶って、籠もって研究をして、追究をしているようなイメージです(本書を見るとまぁあながち間違ってないみたいです)。

 どうやって、世の中に広めるかという広告とは正反対な気がします。広告に対するアンチな感情を持っている哲学者も結構いる気がします(本書を見ると実際にそういう哲学者もいたみたいです)。

 これは、プラトンがソフィストたちの行状を、知識を技術として売っていることに端を発し、それ以来、哲学の知に対して、技術が低い地位に置かれることになったことに由来するとのことです。そんな昔からかよ笑。


 もっとも、原点的なところで、哲学と広告には共通点がある。

 まず、哲学も広告も、どちらも概念(コンセプト)を作る点で共通点があるということ。
 「新しい広告のコンセプトは〇〇です」というのは、哲学における概念の創造と同じなわけです。なるほど。

 また、哲学も広告も、新しい考え方やものの見方を伝え、広める役割を持っているということ。
 これも確かにそうかもしれません。

 でも、プラトン以降の哲学は、先ほどの経緯で、世間離れして難解になってしまった。

 これに対し、本書は、私たちが世の中に何かを訴え、それをいかに多くの人に受容してもらうか、それを考えたときに「広告性」が立ち上がると言います。

世の中の人にどうやって訴えかけ、いかに自分の言いたいことを理解してもらうかという悩みは、哲学にも広告にも共通している悩みです。

 でも、何かお互い屈折した態度になっている。

 哲学も広告も、本来であれば、その性質をもっと正面から見るべきだというのが、本書のいいたいことではないかと思います。 



 もう一つ、本書での気づきを取り上げておこうと思います。

 それは、従来広告は売上そのものにコミットしていなかったという点です。 

深谷:(中略)じつは広告というのは従来、ある商品なら商品を、より多くの人に知ってもらうこと、そして興味をもってもらうこと、次に購入の候補に入れてもらうこと、そして実際にお店まで行ってもらう、という誘導までが施策の範囲でした。ですので、販売すなわち「売れる」というところまではコミットできないとされていたんです。

岡本裕一朗; 深谷信介. ほんとうの「哲学」の話をしよう 哲学者と広告マンの対話 (p.81). Chuokoron-shinsha,Inc.. Kindle 版.

 つまり、いわゆるAIDMAでいえば、広告は本来、「認知」(attention)して、「興味」(interest)を持ち、「欲求」(desire)が生じ、「記憶」(memory)までいけば、それでよかった。
 最後の「購買行動」(action)は、広告の役割ではなかったわけです。


 しかし、インターネットの登場により、広告行為と販売行為が直結して検証が可能となりました。
 また、認知した瞬間にネットで購入が可能となりました。

 その結果、認知から購買までの間の中間プロセスの重要性が下がり、アイドマの重視から、より売上に直結させることが広告の目的となった。

 売上は効率的に上がった方が良いので、そっちに傾くのが自然です。
 要は、いいキャッチコピーより、売れさえすればよい。

 そのため、広告はより直接に消費者の消費行動に働きかけるようになりました。
 如何に購入のクリックを押させるかが重視される時代になったということかと思います。


 最近のネット広告は、確かにそういう傾向があると思います。


 究極的には、人間の脳に直接働きかけて、何も考えることなく、購買行動をさせることに、広告は向かっていくというようなことも書いてあります。
 (なお、本書はそこから更に進んで、広告の死、哲学者の死あるいは人間の終焉なんてはなしも出てきます)。

岡本:(中略)いまのお話を聞いて、ネット社会になる前の1980年代から90年代はじめの頃の広告が、なぜあのように鑑賞用の作品として上質でおもしろいものが多かったのか、その理由が判明しました。その当時は、広告会社のコミットメントは「売れる」ところまではカバーしていなくて、その手前の「認知される」ところが目標だったわけですね。つまり認知されることが正しい。だから広告会社は、売れるという結果の縛りを受けることなく独立したかたちで、広告それ自体のおもしろさや美しさなど、見た人を感動させ憧れさせるようなクオリティを追求することができたわけですね。それが許されていた時代だった。そして、人々が広告をおもしろがった時代でもありましたね。

岡本裕一朗; 深谷信介. ほんとうの「哲学」の話をしよう 哲学者と広告マンの対話 (p.85). Chuokoron-shinsha,Inc.. Kindle 版.

 本noteは、読書感想文とかを書くことが目的なので、売上には期待しすぎず、もし広告性を帯びるとしても、現代の広告性には抗って笑、1980年代から90年代はじめのころみたいな(その時代はまだ子供なのでよく知りませんがw)広告を、ゆるゆるやっていければと思います。

 まあ、ちょっとでも売り上げがあがって、審査に通ったら、飛んで喜ぶと思いますが笑。


 そのために、本を読んだときに、その本が触れている概念やコンセプトにいかに気が付けたか、その気づきをできるだけ大切にできればと思います。
 その気づきが、今までのように「今日一日を最高の一日に」することにつながればいいな、という感じです。

 そんな感じで、「今日一日を最高の一日に」


 起床6:15



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