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「訂正する力」 (東浩紀著、朝日新書)は前向きな再解釈

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今年の新書大賞2024の第2位だったらしい。
正直な感想をいうと、これが新書大賞で高い評価を受けているのが、少し意外な気がした。

東浩紀さんの本は、割と好きで結構読む。この前、だいぶ遅ればせながら「動物化するポストモダン」を読んだことを読書感想文にした。

ただ、実は、これは途中でまだ続きのnoteを下書きの状態にしているんだけど、なかなか途中から進められていない。わかりやすそうに見えて、実は以外と難しいということが整理しながらわかった。

冒頭にも言ったように東浩紀さんの本は結構好きなので、感想文を書いてみようかなと思ったりすることもあるのだが、なかなか書けない。「観光客の哲学」とか「訂正可能性の哲学」とか、むっちゃガン見して読んで、間違いなく自分にとって衝撃になった本なのだけれど、それだけにもし感想文noteを書こうとしたらと、どうも身構えてしまう。


この「訂正する力」は、そういう意味で言うともう少し気楽にnoteに適当な感想を書いてもいいかなと思ったりした(ある意味失礼)。

「訂正する力」というのは、「過去との一貫性を主張しながら、実際には過去の解釈を変え、現実に合わせて変化する力」とされている。
訂正する力の核心は、「じつは・・・だった」という発見の感覚にある。
この遡行的訂正のダイナミズムは、自然科学が反証可能性の原理に基づくのに対して、人文学は訂正可能性の原理に基づくと整理する。前者では、過去はリセットされ、後者では、過去は訂正される。


この本は、新書の分量の本なのだけれど、政治のこととか、日本思想のこととか、時事ネタ的なこととかいろいろな話題が書いてある。「訂正する力」というキーワードで、いろいろな話題に飛ぶのでちょっと強引かなと思ってしまう印象がなくはない。

ただこれは、たぶんわざとやっているような気がする。例えば、あえて極端な右寄りの発想、極端な左寄りの発想に対するアンチテーゼみたいなのをぶっこんでいるのだが、これは、いろいろな界隈から批判が飛びそうである。
いろいろな界隈から批判が飛ぶということは話題になるということであり、注目を浴びるということにもなる。

「訂正可能性の哲学」と「訂正する力」のどっちが面白いかで言ったら、間違いなく前者なんだけど、「訂正する力」は、もう少しライトに「訂正する力」というキーワードで現代の話題に切り込んでいくところがある。
それだけでも面白いし、だからこそ人気が出そうなんだけど、いかんせん少し強引な印象があったり、著者が本当に言いたいことよりは話題性重視で言っているのかなと思ってしまうような部分があったりする。

その一方で、実は「訂正する力」を正確に理解するのは、難しいような気がしてしまう。本書にも言及されているように、「訂正する力」は、一歩間違えると「歴史修正主義」に陥ってしまう。この「訂正する力」だけを読んでいたとするともしかしたら、東浩紀さんが危険思想をこっそり持ち込もうとしている人のように見えてきてしまうかもしれない。

なので、新書大賞2位というのは少し意外だった。

それでも、今日この本を紹介することにしたのは、実はここ最近のnoteを見ていて、上記の考えを「訂正」してみたくなったから。

この本には、「考える」ことについて指摘がある。

 本書は「訂正する力」を主題にしています。訂正する力とは「考える力」ということでもあります。本書は、なによりもみなさんに「考えるひと」になってもらいたいと思って書いています。
 けれども、いまはそのような本は好まれません。市場を席巻しているのは「考えない」方法を説く言葉ばかりです。だから読者が見えないのです。  考えるとはとてもふしぎな行為です。考えたからいいことがあるとはかぎらない。むしろ考えると動けなくなる。まえに進めなくなる。それでも考えることは大事なはずだと本書では言い続けてきましたが、正直言ってそれが本当だという確信もありません。だって、世界には、なにも考えずに大成功しているひとがいくらでもいます。そっちのほうがどう考えてもよさそうです
 それでも、ぼくはなぜか、いまの世界には考えるひとがあまりにも少なく、それはまずいと感じてしまった。みなが「考えないで成功する」ための方法ばかりを求める国は、いつか破滅すると感じてしまった。そう危機感を抱いたこともまた、本書執筆のきっかけのひとつです。

東 浩紀. 訂正する力 (朝日新書) (p.165). 朝日新聞出版. Kindle 版.

東浩紀さんは、「誤配」とか「観光客」とか今回の「訂正可能性」といったような、独自の特長的な概念を取り入れて論じているんだけど、私が面白いなあと思うのは、明快にわかりやすく説明しているように見えて、「ん?」って考えたくなってくるから。

言い方を変えると、右とか左といった意味でも、相対とか絶対とかいった意味でも、直ちに極端な発想を取らず、「あいまいな」ゾーンで線引きをしようとし続けているから。この「あいまいな」ゾーンで線引きをするときに、「誤配」とか「観光客」とか「訂正可能性」といった概念が入ってくるとあいまいなヴァーチャル図書館が、すごく面白そうに見えてくる。

その割に、時事問題には果敢に切り込んでいくので、一時は右寄りの結論に見えたり、ある時は左寄りの結論に見えたりすることになる。そして、あいまいなゾーンで果敢に線引きをして論じようとする。そうすると「あいまいだ」って批判も受けることも結構あるんじゃないかと思うけど、そこで「ん?」って考えられるかどうか、そして、考えた結果、前向きに再解釈をして、「訂正」することができるかどうか、それがもしかしたら大事なんじゃないか。

そう考えたら、実は、「訂正する力」は、至極当たり前のことを言っているような気がしてきた。

この本そのものの解釈が「訂正」される可能性もあるのだ。

だから、noteをやるときもどんどん前向きに「訂正」をしていっていいんじゃないかと思う。ブレてるとかって批判もあるかもしれないけれど、別に自分のnoteだし(笑)。
また、それはブレてるんじゃなくて、「じつは・・・だった」という発見の感覚であり、クリエイターは過去を継承しながら、現在に合わせて変化している。それが続けていくコツなんじゃないかっていう気もしてくる。

そうはいっても、何も考えないで大成功できた方が本当はいいかなあ(笑)。そんな感じで、日々「訂正」しまくって、ごまかしながら生きている自分としては、ここまで考えて、前向きに生きる勇気を与えられたような気がします。頭が固くなりすぎずに「訂正」しながら柔軟に続けられればいいかなあ、そんな感じです。

そんなわけで、今日もまた「訂正」しながら、「今日一日を最高の一日に





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