平凡だった僕がNYでUDON IS ROCKパフォーマンスをするまでの軌跡【上巻うどん邂逅編】
▼序章
2017年トランプ氏が大統領に就任した年のとある早朝、人通りは少ないが国連で各国首脳が集まるということでテントの陣が各所に敷かれ、厳重警戒態勢のNYトランプタワー前。
角ついた白眼鏡に白黒の和服、日の丸鉢巻を巻いた僕はレンタカーを停め、アメリカ産ステンレス製の作業用テーブルを抱えて立ち止まった。ポリスもを背後にし、おもむろに麺棒を取り出しうどんを打ち始めた。
これは23年間スポーツも学問も平凡、高校受験は落ち恋も幾度と虚しく散ってきたアベレージ人間である僕が、勇気を積み重ね、凡庸に抗い続けた忘備録です。
▼サラリーマン編
2012年、愛媛で育ち名古屋の大学に行った僕は、東京まで会社説明会に夜行バスでよく通っていた。
その日、とある企業の社長プレゼンに僕は感銘を受けた。
「リーマンショックが起きた今、日本列島を沈みかけたタイタニック号に例えよう。君たちは甲板に出る?船に残る?ボートを出す?否、これからの時代を生き抜いていけるのは真っ先に海に飛び込み自分で泳いでいける人材だ。そういう人間になりなさい」
誰の力も借りず生きていける自力をつけようとその時決心した。
夢も志もやりたいことも何もないけど、見つけた時に生かせる仕事をしよう。見つけた志がどんなものだったとしても生かせるように、大学では心理学部に入ったわけだし、仕事も汎用性あるパラメータ伸ばそう!
っていうことでメンタルを強くしていこうと決めた。
大学を卒業した僕は先の企業から不採用通知を受け別の企業に就職していた。
仕事ができず失敗ばかりの僕は、社長や専務から殴られ蹴られ暴力を受ける日々。
メンタルが強くなっているか考える余裕は一切なかった。
これが新卒というものなのかと、比較対象を知らない僕は受け入れるしかなかった。
理想とは程遠い日々だった。
とある土曜の朝、仕事ができない僕に唯一優しくしてくれていた部長がミスをした。
PCカチャカチャしながら横目で見た。
すると社長は部長の首を締めはじめた。
落ちかけていた部長を見てヤバイと思った僕は同期と共に止めに入った。
「社長やめてください、これ以上やったら死んでしまいます!!」
昨日殴られて切れていた口の中の血の味を感じながら、僕は気づいた。
これはおかしい。
翌日、辞表を書いた。
あとさき考えずに辞めた。
新卒から半年せず、無職になった。
食っていかないとだけど、何かが見つかった時に生きてくる仕事をしたかった。手あたり次第にやってみた。初めての居酒屋バイトや倉庫作業、どこかにやりがいを見出したかったけど、どれも人生の志、やりたいことにはならなかった。
僕には高校の時からモバゲーで繋がっていた心の師匠みたいな人がいた。
師匠に僕は何をしたらいいのかわからないと打ち明けた。
すると香川県にいる師匠は
「うどんやってみたらええんやないか。お前は職人が向いとると思うぞ。」
何もなかった僕は盲目的に決めた。
麺類好きだし(主にラーメン)日本の歴史好きだから日本の麺やりたいし、うどん職人て回りにいないし、フロンティア感あってワクワクしたってのもあるし、何事もやってみないとわからないと思っていたから。
ここに自分にしかできないことがもしかしたらあるかもしれない。
「とにかくやってみます!面白かったら続けてみます!合わなければやめますんで!」
▼邂逅ーうどん慎編ー
とはいえうどん作りってどんなもんぞということで、ネットを頼りにうどんを作ってみた。
・・・なんだ、意外と難しいじゃないか、、
2013年僕は早速うどん屋の門を叩いた。
個人店で雰囲気がなんか好きで、綺麗な麺を作っていた新宿のうどん慎に弟子入りした。今となっては有名店となった慎も当時はまだまだ躍進中のお店だった。
二十代でバイトじゃなく「うどんを学びたい」と言って入ってくる者は少ないらしく、色々なポジションをすぐにやらせてくれた。
職人にありがちな丁稚奉公はすっ飛ばせた。若いって、マイノリティってスゴイ。↓修業開始時の意気揚々とした僕
24:00、営業終了後にみんなで出かけて店主の楢さんにおごってもらっていたラーメンと餃子とキリンの瓶ビール今でも思い出深い。
日本酒やおつまみもここで勉強できたのは大きいが、何よりここでは自分が必要とされているのを実感できた。僕はオペレーションや俯瞰力が得意だったことがわかったし、ここでより伸ばせた。
僕が目指すのは「安定」なのですが、「安定とは適応力を持つことである」とはこの時なんとなくはわかっていたけど、まだ言葉にできていなかった。
しかし数ヶ月して社員になった僕は、場を回してる支配感、自分の存在価値、居心地の良さを感じるようになってしまっていた。
慣れるということは成長痛が減ることを意味する。
居心地の良さは僕に、このままで良いのかと突きつけてきたようだった。
僕はこの時、このお店を辞めることを考えた。
▼修業前夜ー製麺所仮暮らし編ー
2014年慎を退職した。
慎では生地は他所から仕入れ、機械製麺、お店としての完成度は高くとも職人として僕が目指す感覚を鍛える場所にはならなかった。
機械でうどんを作るにしても、最初から最後まで自分の手と足だけでうどんを作れるようになりたいと思い、本番讃岐人による本格手打ち技を学ぶべく谷さんに師事した。
「修業したいです」と申し出ると、これまた快く受け入れてくれた。
二十代アドバンテージがここでも効いた。
職人の何たるかを体で学ぶ修業の日々が幕を上げたのだ。
しかし修業は最初から僕の予想を越えた展開になった。
「小野くん、谷やはええから、俺のプライベート製麺所でうどん作り一気に覚えて新店立ち上げからやってみようか」
え?
「他の弟子はみんなびびってようやらんのや、小野くんがやる言うならええよ、資金は全部もつけん」
僕は一瞬迷った。でも滅多にないチャンスだとすぐに認識した。
こういう時は飛び込むんだと肌で感じた。二つ返事だった。
「やります。やらせてください」
師匠は頷いた後、こう続けた。
「ええか小野くん、よう覚えとけよ。簡単な道か困難な道か、迷ったら必ず困難な方を選べ。そういう二十代を過ごせ。自分のためになるから」
師匠は正しい、そう僕の直感が納得した。
僕は慎時代に住んでいた代々木から引っ越すことになった。
練り機と大量の粉、踏みスペースに打ち台に延し棒に麺切包丁、業務用冷蔵冷凍庫、製麺で必要なものは全てそこに揃っていた。
その隣の小さな事務所ぽい何もないスペースに荷物を全てブチ込んで、荷物のわずかな隙間に布団だけ敷いて、寝るかうどん作るかしかない空間に住むことになった。
余談ですが最初で最後であろう、東京でも屈指の物価高の中央区民に晴れてなりましたとさ。
毎朝うどんを練って麺線にしては師匠の自宅に持っていき、茹でて出来を見てもらう。そのまま風呂をたまにお借りする。洗濯は近くのコインランドリーで週に一度まとめて行う。新店の物件探しや機材を探したり勉強する毎日。空いた時間は丸亀製麺でチェーン最先端とやらも学んだ。
修業らしい特別な日々、新しいことを覚える楽しみや積み上がる感覚で僕はうどんのさらなる深みに足を踏み入れ始めていた。
▼現実ー直白編ー
時は過ぎ、僕は谷やで働くことなく店長になった。
名を「直白」という。僕が初めて名付けたうどん屋の名前だ。
「ひた」むきに「しろ」く、という意味を込めた。
出だしから成功して大儲け!
とはならなかった。
神保町にある都内屈指の行列店「丸香」激近といううどん屋のタブーたる立地に師匠は目を付けてしまったのだ。
「ここで勝負しぃや。おもろいやんけ!」
現実は立ち上げの難しさ、オペレーション、立地と認知、経営の壁に幾度とぶちあたり、何度もくじけそうになった。
サラリーマンの出勤時間を狙い、背中に看板背負ってチラシを配ったり、中休みで近くのはなまるうどんでバイトして売上の足しにしていたこともあった。
明治大学の近くだったので、学生うどんというのを作ると、そこに目を付けた合唱部の子たちと仲良くなり、初期直白の売上に少なからず貢献してくれた。
余談だが、彼らの卒業公演に呼ばれて行くと感動して涙したこともあった。
兄弟子にあたる佐藤さんとはほとんど面識がなかったが、僕に次いで新店でやりたいと希望したらしく、これまたいきなりパートナーというか部下ができた。一回り年上だし、頑固で愛想がいいとは言えない、コミュニケーションが得意って感じでもない人だった。
考えが読めず「この人何考えてるんだ、、」と疑問に思うことも多く、すれ違って幾度とぶつかりあったが、ここで僕はその人が何を考えているのか読むことを少し積んだ気がする。
にしても、なんでこんなに壁がやたら多いんだ、、と思いながらも、それでも前に進むしかない。僕の脳内に諦めるという言葉は浮かんでこなかった。
▼激化ー谷や編ー
言い忘れていましたが、製麺所仮暮らしの時から師匠のつてで、埼玉のうどん屋さんに生麺を納品していました。それを加えても売上は立たず、やはり腕もまだまだということで師匠からあらためて谷やに来いと辞令的なお達しがありました。
ここから僕の本当の修業が始まったといっても過言ではありません。
僕の生活はよりうどん色に染まりました。
朝2時、谷やに出勤し、谷やと埼玉納品分と直白、計三店舗分の生地を作り、バイクで直白に向かう。
到着したら直白の生地を鍛錬熟成させつつ出汁や天ぷらの仕込み、直白の製麺を行う。昼営業が終わったら納品分を製麺し、製麺所に持っていく、そのまま谷やに向かい、夜営業に入る。終業22時。帰宅して即寝ても3時間しか睡眠はとれない。週一で休めたのでそれはありがたかった。
こんな日々が延々と続いた。
修業の日々は僕にそれ以外を考える隙を与えてくれませんでしたが、奥深いとはこういうことなのかと、日々新しいことを学び感じ成長というものを得る充実感はありました。
うどんそのものにハマったのはこの瞬間だったんだと思います。
ブラック企業時代に身についたタフさがここでまさか生きてくるとはあの時知る由もありませんでした。
ただもう一つ、修業を支えた大事なものがあります。
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話は少し変わり、遡ること6年。
高校生の時に3年間みんなは同じクラスだったのですが、僕は二年生になる時に理系から文系へ、いわゆる文転をしました。
要は1人だけ学年が変わったわけです。クラスが変わるというか転校したような感覚です。一年生の時にできたグループで皆は固まり、僕は休み時間一人机に伏せ、誰とも喋りませんでした。
でもその時僕は笑っていたんです。
普通なら辛くなりそうなものですが、自慢の漫画脳が冴え渡りました。
「ああ、俺一人特別だ、主人公みたいだ」
別名厨二病ともいいます。世間一般では痛いやつと言われたりするやつで、あまり異性からはモテないのでいいイメージはありません。
まあそんなことはさておき、、
僕はこの漫画脳のおかげで、修業中のメンタルが保たれ、6年後に訪れる数々の逆境をポジティブに変換していくことにもなります。
漫画脳とは、ストレス/苦しみ/辛さ/しんどさを成長に変えていける才能のことなのかもしれないと最近になって感じています。
谷やでの修業を漫画脳で乗り越えて、GWの行列地獄に泣きながらも成長していった僕は、谷やの中核を担うようになっていった。
時給換算で安定して500円を切っていたが、レベルアップへの渇望が勝り気にはならなかった僕も、考える時間の余白により疑問を持ち始める。
尊敬していた仕事のできるフレンチ出身のクールな先輩や、イタリアン出身の努力家の先輩は、過酷な労働環境においても働いていて、でもうどん屋開業を目指すわけでもないらしく、なんとなく続けては辞めていった。
「小池さんってうどん屋開いたりしないんですか?」
「しんどいし、大してお金にならんでしょ。やらないねえ」
こんなに大変で技術が必要で、美味しいものを作っていて、たくさんの人が求めてやってくる。なのに安い。金にならない。
うどん屋には夢がない。
僕は僕では落としどころがわからない疑問をもった。
でもこのまま満ち足りたように感じている修業を続けるのは違うのでないかとも感じた。
人生には小さな分岐が無数に存在し、大きな分岐点がいくつかある。
でもそれは振り返った時しか見ることはできない。
2016年、大きなイベントが発生したわけではないが、大きな分岐点で凡庸な僕はマイノリティな選択をし、マイノリティになっていくことになる。
中巻フジロック編へ続く。
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