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平安貴族も楽じゃない(大河ドラマ「光る君へ」を100倍楽しむために)【5話/6話】

俺の筆の進みは絶望的に遅い。
世間では「光る君へ」の12話が始まろうとしている中、俺はまだこうして6話の記事を書いている。このままでは一生最新話に辿り着かないのではないかという気さえしてくるが、それはともかくとして、5話から6話ではついにまひろが道長に母の仇・道兼の事を話す。まひろと道長の関係も大きく動きそうな中、宮中でも藤原兼家たちの花山天皇に対する陰謀が少しずつ進展していく。静かに、しかし着実に話の展開が進む中、今回も6話までで気になったところを見ていきたいと思う。


藤原兼家という男

ドラマが進む中で、その底知れなさを存分に発揮しているのが、道長たち三兄弟の父である藤原兼家だ。娘の詮子を出世の道具として利用し、主君である円融天皇に毒を盛り、息子の道兼に悪名を全て背負わせて悪びれもしない。老獪で頭が回り、かつ権力に貪欲なその姿は、まさに激しい出世競争を勝ち抜いた大貴族そのものだ。

そんな恐るべき策略家、藤原兼家という男は、実際の歴史の中でどんな人生を歩んできたのか、少し詳しく見ていきたい。

宮中きっての実力者、藤原兼家

貴族の出世は子孫のために

巧みな策略で権力の頂点を極めんとする兼家だが、その彼が息子たちに言い聞かせるように何度も使う言葉が、「我が一族繁栄のため」だ。

現代でも、親が偉いさんならその子どもの将来にとって何かと有利に働くことが多いだろう。そういう意味では、一族繁栄のためという兼家の言葉は現代と変わらない、ありきたりなものに思うかもしれない。

だが平安貴族にとっての出世というのは現代とは比べ物にならないほど重大な問題で、彼らの子孫たちが宮廷社会の中で生き残れるか否かに直結していた。貴族たちにとって、自分たちの生きる世界は朝廷だけが全てだ。彼らに職業選択の自由なんて無いし、転職などという概念もない。貴族と生まれたからには、朝廷の官人として働き、そのまま生を全うするのが当たり前だ。

平安貴族たちからすれば、宮仕えを捨てて野に下り、農夫や商人と同じ暮らしをするなんてことはよっぽどのことだった。現代人なら仕事を辞めて経済活動から完全に距離を取り、山奥で自給自足の生活を送る、ぐらいの感覚だったかもしれない。現代なら役人以外の生き方も色々選べるが、何かしら働いて給料を得て生活する、という枠組みから外れる生き方をする人は少ないだろう。そして平安貴族にとっての「枠組み」は、朝廷という社会だった。

貴族として生まれたからには朝廷に仕えて生きていくというのが彼らの常識だった。だが朝廷の官職というのは数に限りがある。時代を経るごとに貴族の子孫たちは増えていくが、国の役職というのはそんなに増えることは無い。このため、朝廷社会では少ない官職を多数の貴族たちが奪い合う、熾烈な出世競争が行われることになった。

当時の朝廷社会では蔭位おんいの制という制度があった。蔭位とは、父親の位階がその息子にも適応される制度のことで、例えば父親の官位が一位だった場合はその息子は従五位下の官位から朝廷社会をスタートすることができる。従五位下と聞くと随分下に思えるかもしれないが、まひろの父・為時が多分六位ぐらいの位階であるのを考えると、新社会人がいきなり課長からスタートぐらいの優位性があった。

しかも父親の官位が一位のような権力者ならその後の出世もあっという間だ。トントン拍子に位階も進み、順調にいけば三位に上がって殿上人となり、大納言から大臣へと出世するのも夢じゃない。一見すると有力貴族にただただ有利なだけの制度に見える。

父親が有力者なら出世も早いのは昔から変わらない

だが何事もそう上手くはいかない。有力者に有利な制度というのは確かだが、一方で一度つまずくとあっという間に子孫の出世の道は閉ざされてしまうという事でもある。例えば大貴族の息子として従五位下からスタートしても、父親が急死などして出世が止まり四位辺りで終わってしまえば、その息子はさらに低い位階からスタートすることになる。しかもその時には、他の一族の子弟が高位の父親の蔭位を得て出世街道を進んでいるわけだから、元大貴族の子孫たちはどんどん落ちぶれていくことになる。

貴族社会の出世サイクルは常に忙しく回転しており、この流れに乗れなかった一族はあっという間に衰退していってしまう。まひろの父・為時が何年も官職が得られなかったように、少ない役職を奪い合う貴族社会の中で、落ちぶれた一族はまともな生活を送るのも難しくなる。そうならないためにすることはただ一つ。常に勝ち続けることだ。頂点に立ち続けることによってのみ、一族の繁栄は約束されるのだ。

九条流一族の繁栄

貴族たちがなぜ必死になって出世しようと努力するのか、そしてなぜ兼家はしきりに「一族の繁栄のため」という言葉を使うのかは、以上に述べた通りだ。次に海千山千な政治家・兼家の来歴について触れていきたいが、その前にまず兼家も属する九条流の一族について簡単におさらいしたい。

以前の記事でも触れてきたが、星の数ほどいる藤原氏の中でも、出世競争を「勝ち続けてきた」一族を、藤原北家という。そしてドラマの作中で、藤原北家の中の頂点を争う人物たちが所属するのが兼家の父・師輔を祖とする九条流と、兼家の伯父・実頼を祖とする小野宮流の二つだ。まひろ自身も藤原北家の出となるが、当然この二派から見れば傍流の存在に過ぎない。

藤原北家嫡流の二派

系図で言えば、兼家の属する九条流は、小野宮流から見れば弟筋であり、藤原北家の嫡流とはなれないはずであった。しかし、一人の女性によってその流れは覆される。その女性とは、兼家にとって姉に当たる藤原安子だった。

藤原安子は時の天皇だった村上天皇のもとに嫁ぎ、冷泉天皇と、ドラマにも登場した円融天皇という二人の天皇を産んだ。三男四女と子を沢山成した安子は村上天皇からも重んじられ、兼家ら兄弟たちは彼女の親族として立身出世の足掛かりを得た。

安子には気の強い一面があった。ある時、村上天皇のもとに新たな女性が嫁いできたが、その女性を垣間見た安子はその美しさに嫉妬心を抑えられず、お付きの女官に食器の破片を彼女の部屋に投げさせた。これをたまたま見ていた村上天皇は立腹し、こんなことをやらせたのは安子の兄弟たちに違いないと考え、伊尹これただ兼通かねみち・兼家の三兄弟を謹慎させた。

これに怒った安子は、村上天皇を自室に呼びつける。安子が怒っていると聞いた村上は気後れして行こうとしないが、何度も呼ばれてついに折れる。やってきた村上に対し安子は、「私がやったことで兄弟が罰せられるなんて間違っている」と責める。今すぐ謹慎を解けと迫る安子に対し、村上は流石にすぐ命令を撤回するのはどうかと渋るが、とんでもないと安子はさらに言い立てる。

ついに村上は兄弟の謹慎を解くことを了承するが、安子はそれでも引かず、「後になって考えが変わるかもしれないので今ここで命令を出してください」と村上を離さなかった。とうとう村上も根負けし、その場で三兄弟の謹慎を解かせた。安子の気の強さもさることながら、村上の安子に対する気の使いようを伝わってくるエピソードだ。

安子自身は若くして亡くなってしまうが、彼女の残したものは大きかった。冷泉・円融の二帝が相次いで即位すると、兼家たち兄弟は母親の親戚として二帝を後見し、その権勢を確かなものに固めていった。九条流の繁栄は、安子によってもたらされたのだった。

兄・兼通との確執

安子によって出世の道が開かれた兼家だったが、彼には兄が二人いた。伊尹これただ兼通かねみちだ。父・師輔が急死した後、長兄・伊尹はその後継として村上天皇の信任を得て、急速に出世していった。三兄弟は当初は九条流一族の権力を確かなものにするために一致して動いていたが、伊尹の死によってその結束も揺らいでいく。

元々からして次兄・兼通と三男・兼家の仲は良くなかった。兼家がトントン拍子で出世の道を進み中納言になった時、兄の兼通はまだ参議の位だった。貴族の出世にかける意気込みが並大抵ではないのは先に語った通りだが、兼通にとって弟に先を越される屈辱はすさまじかった。そうして鬱屈としていた兼通だったが、一発逆転のための一計を密かに案じていた。

兼通は村上天皇に嫁いでいた妹の安子に「関白の役職は兄弟順番に継いでいくように」と念書を書かせていた。のちのち、伊尹が重病のため関白を辞すと、その後継を兼通と兼家が争った。当時兼通は弟の下につくのを嫌ってかあまり朝廷に出仕していなかったので、時の帝だった円融天皇は疎遠な兼通より身近な兼家の方を立てようと考えていた。

しかしここで兼通は安子の念書を取り出して円融に見せる。披見した円融は、「これは確かに亡き母の筆跡だ」と心を動かし、母の遺言に背くまいと兼通を次の関白にしたという。兼通の用意周到さもさることながら、こんな所にも安子の影響力の強さがよく表れていると言えるだろう。

以上は歴史物語である「大鏡」にのる話だ。ちょっとうまく出来すぎたエピソードなのでどこまで真実なのかは疑わしいが、兼通の異例の関白就任には亡き安子の何らかの遺命が優位に働いた、というのは有力な説らしい。それはともかくとしても、何としても弟に負けたくないという兼通の出世に対する執念が伝わってくる話だ。

一足飛びに弟の官位を飛び越えた兼通は関白として朝廷を仕切るようになる。そうなると当然冷や飯を食わされるのは今度は兼家の方だ。兼家の昇進は停滞し、今度は兼家の方が兼通を深く恨むことになる。出世の争いから互いに憎しあうまでに発展した二人の関係は、最早修復不可能となっていた。

ドラマ内に兼通は登場しないが、のちの道長政権下で長らく次席を務めた藤原顕光は兼通の子だ


冷遇の時代が続く中、兼家はじっと機を待っていた。そして転機は訪れる。兼通が病に倒れたのだ。重病の末についに兼通が亡くなったと聞いた兼家は、喜び勇んで内裏に馳せ参じ、円融天皇に面会した。早速次の関白について相談しようとしていたところ、突然現れたのは鬼気迫る形相のやつれ果てた兼通だった。

重病に臥せっていた兼通だったが、まだ死んではいなかった。危篤の状態で生死の境をさまよっているとき、屋敷に近づいてくる人の声が聞こえてきた。人をやって見に行かせると、弟・兼家の行列ということだった。兼通は、「官位の争いから長年いがみ合ってきたが、さすがに自分が死ぬと聞いて見舞いに来てくれたのか」と、面会するために病室を片付けさせて待っていた。

しかしいくら待っても兼家はやって来ない。再び人やって見に行かせると、「行列は屋敷の前を素通りして内裏の方へ行きました」とのことだった。この時兼通が感じた憤りはいかほどだっただろう。弟にコケにされたと感じた兼通は怒り狂い、やにわに病床から身を起こして外出支度を始める。周囲が慌てる中、兼通は車に乗り込み内裏へ向かおうとする。すわ、鬼に憑りつかれて狂ったかと家人たちが止める間もなく行ってしまった。

こうして内裏に現れた兼通は、病のために死相が浮き出た鬼気迫る表情だったろう。驚いた兼家はそそくさと部屋を退出し、二人きりになった円融天皇はおっかなびっくり兼通に何の用かと問いかける。兼通は鬼の形相で「最後の除目(人事に関する政務)に参りました」と答えると、自分の後継として関白に従兄弟の藤原頼忠を指名し、さらに兼家の官職を取り上げてしまった。

棚ぼた的に関白になった藤原頼忠

死に際の執念をみせる兼通に対し、円融天皇を初めとして他の公卿たちも何も言うことができなかった。こうして兼通の最期の復讐は成し遂げられ、兼家は関白になる事ができずさらに数年耐え忍ぶことになる。そしてようやく好機が巡ってきたのが、ドラマ本編開始以降の話となる。

兼通と兼家の対立は、兄弟と言えども出世の道の上ではライバルであるという好例だ。そしてこれは、兼家の息子たちにも当てはまるのだ。長子として後継たらんとする長兄・隆家。出世の道に執念を見せる次兄・兼家。そして父・兼通と同じく三男ながら出世の道を進むことになる道長。伊尹・兼通・兼家三兄弟は「光る君へ」の三兄弟の鏡写しの存在なのだ。

道兼と道長の対立は、どのような結末を迎えるのか

大鏡が語る兼家の人物像

俺は最近大鏡おおかがみを読み終わったばっかりだから、つい大鏡出典の話をしたくなってしまう事を許してほしい。そもそも大鏡というのは、道長の時代の少し後に成立した歴史物語だ。その内容は、二人の長寿の老人が今の世(つまり道長政権)の素晴らしさを讃え、転じて道長までに至る皇室と藤原氏の歴史を二人の老人が聴衆に語っていくというものになっている。講談社学術文庫から現代語訳版が出ているが大変読みやすく、ドラマとドンピシャの時代を扱っているからあなた方も興味を持ちやすいだろうからおすすめだ。

さてそんな大鏡には道長の父である兼家の話も当然載っている。書いてあること自体は意外と少ないが、兼家の豪胆というか図太いというか図々しいというか、その性格がよくわかるエピソードが語られている。真っ先に触れられるのが、兼家のだらしなさだ。兼家の従兄弟である関白・頼忠などは内裏では常に居住まいを正していたと言われる程なのに、一方の兼家は出仕の際も服装をだらしなく着崩し、ある時など天皇・皇太子が臨席する儀式の最中、暑いからと言って着物をほとんど脱いでしまったという。

続けて大鏡では、兼家の晩年には自分の屋敷である東三条殿の一角に、王宮である清涼殿の造りをそっくりそのまま似せた御殿を造り、そこに住んでいたと語られる。内裏でのだらしなさの話もそうだが、大鏡では兼家のことを天皇の権威を蔑ろにする人物として批判的に捉えている。だが、緊張する内裏での儀式の最中、暑いからといって服を脱いでしまう兼家の姿は、どこか愛嬌も感じられる。

こういうだらしなさを愛嬌と捉えるか不真面目さと捉えるかは人によるだろう。朝廷内で順調に出世できたところをみるに、兼家のこの性格もおおむね好意的に取られたのだと思う。たぶん長兄の伊尹はこの図々しさを長所と見ただろうし、次兄の兼通は不真面目な奴だと癪に障り、しかもそれが許されるのが忌々しかったに違いない。

ちなみに大鏡では他にも、占い師を篤く信じて好待遇を与える話や、周囲の人間が気味悪がった二条の屋敷をいたく気に入り、好んで住んでいたという話が載る。この二条の屋敷はいわく付きだったらしく、物の怪に遭遇した兼家が太刀を片手に𠮟りつけ、これを撃退する武勇伝が残るものの、兼家死後は誰も寄り付かず、最終的に法興院という寺院となったという。

兼家の孫・居貞親王

さて、ドラマの中で兼家が皇位につけようと企むのは娘・詮子と円融天皇の子である懐仁親王だが、実は兼家にはもう一人皇族の孫がいた。それが居貞親王おきさだしんのうだ。居貞親王は兼家のもう一人の娘である超子と冷泉天皇の間に生まれた子だ。つまり花山天皇の異母弟という事になる。

冷泉天皇とその周辺
近親と結婚しすぎだろとツッコんではいけない

兼家はこの超子の子どもたちを特に可愛がっていたという。地震が起こったりすると、兼家は道長ら息子たちには帝の方に参上するように命じ、自分は居貞親王の方に真っ先に見舞いに行くほどだった。石帯という当時のベルトを居貞親王にプレゼントした際、留め具の裏に自ら「春宮様へ」と彫るほどの溺愛っぷりだ。

冷泉天皇と円融天皇の関係は以前の記事で述べた通りだが、円融天皇は冷泉皇統の花山天皇が即位するまでのピンチヒッターだと考えられていた。だからこそ兼家は冷泉の子である居貞親王に期待をかけていたのだろう。実際、詮子の円融帝への入内は超子のそれよりだいぶ遅い。兼家があくまで冷泉系が正統と考え、円融帝に期待していなかった表れだろう。

結果的に円融帝のたった一人の男子だった懐仁親王は、円融の最後の執念で皇太子の座に収まる。兼家と円融、二人の利害が一致した結果だが、冷泉を正統と見ていた兼家を円融が快く思わなかったのだろう。二人の対立する様子は、ドラマで描かれている通りだ。

花山天皇の退位後、懐仁親王が即位して一条天皇となると、兼家の後押しで居貞親王は春宮となり、のちに即位して三条天皇となった。しかしその時すでに兼家は亡く、奇しくも自分の異母兄・花山天皇と同じく後見の無い不安定な立場での即位となってしまう。そしてその末路も、やはり兄と同じような結末となってしまった。

ちなみに、冷泉と超子の子は居貞親王以外に、為尊親王と敦道親王の二人がいる。それぞれ官職が弾正尹だんじょうのかみ太宰帥だざいのそちだったことから弾正宮だんじょうのみや帥宮そちのみやとも呼ばれる。皇位を継ぐことは無かったが、平安の女流歌人であり多くの恋愛遍歴で浮名を流した和泉式部いずみしきぶと兄弟そろって熱愛を繰り広げたことで有名になった。

藤原兼家の存在は、この時代の歴史を知る上で欠かせない存在だ。出世の道を駆け上り、不遇の時代も耐え忍び、好機を得るやたちまち政権の頂点へと上り詰めた。偉大な巨人・兼家の存在なくば、道長の世も開けなかったのだ。

内裏の守りは大丈夫?

ここで話は変わるが、ドラマの中で直秀ら散楽仲間たちが屋敷に盗みに入り、奪ったものを下層民に配るという義賊的な活動のシーンがある。この時、直秀は宿直していた道長に弓で射られる訳だが、道長たちが警備していたのだから直秀たちが盗みを働いたのはあろうことか内裏だいりの中ということになる。

内裏だいりとは、平安京の中でも朝廷の政務をとり行う役所や天皇の住まいが集まった国家の中心地であり、今で言えば皇居や首相官邸、国会議事堂などが一堂に会す場所と言える。そんな所に忍び込もうとするのだから、直秀たちは大胆不敵な連中だと思うかもしれない。

だが、当時の貴族の日記を見ると、実際に白昼堂々内裏の中に強盗が現れたという記録が残っている。王宮内に強盗が現れるなんてちょっと考えられないが、目に付く記録はこれだけではない。内裏の門を出てすぐの所で暴漢に襲われたとか、皇居内に物乞いが入ってきて女官たちに物をねだったとか、とても国の中枢機関が軒を連ねる場所の出来事とは思えない話がでてくるのだ。

我々が想像する王宮といえば、中国や西洋の豪奢で絢爛な建物で、周囲は厳重に警備されており、不審者が立ち入ろうものならあっという間に処刑されそうなものだろう。だが平安時代の内裏というものはそういう厳戒な所ではなかった。侵入しようとすればできたようだし、死をけがれとして忌み嫌う当時なら不審者としていきなり殺される事もなかっただろう。

平安時代は長らく死刑が実行されない時代だった。これは別に平安人たちが人道的だったというわけではなく、死をけがれとして避けるべき物とした当時の風習による。この穢れというものは人から人に移っていくものと考えられていたため、もし人の死に直面したり人が死んだ屋敷に立ち入ったりしたら、自分に付いた穢れが他の人に感染しないように自宅で謹慎しなければならなかった。

当時の貴族の日記を見ると、犬の死穢しえのため誰々が会議を欠席しているだとか、犬の産穢さんえ(貴族たちは血が流れる事を穢れと捉えていたので、出産も穢れに該当した)のため誰々が出仕してこないとかいう記事が散見される。ズル休みの口実として都合よく使ってるとしか思えないが、こうして自分に付いた穢れを広めない、内裏を清浄な状態に保つというのは、平安貴族たちの常識だった。

内裏は特に穢れを持ち込んではいけない場所だった

ところで犬の死穢というのが貴族のズル休みの定番となるぐらいだから、当時の平安京には野良犬がたくさんいたのだろう。野良犬と内裏に関して、こんな凄惨な話が残っている。ある日、道長が内裏に出仕しようとすると使いの者がやってきて、「内裏にて死穢が発生しました」と伝えてきた。詳しく話を聞くと、なんと内裏の床下から子供の死体が見つかったという事だった。なぜそんなところに死体があったのか。おそらく河原にでも打ち捨てられていた子供の死骸を野良犬が咥えたまま内裏に入り込んだのだろう。死骸はあちこちを犬に食い散らかされており見るも無残な状態で、内裏で穢れが発生することは避けられなかったという。

今でこそ葬儀の際は火葬が一般的だが、当時は上層階級では火葬が行われることもあったが、一般には遺体をそのまま埋める土葬や、遺体を野ざらしに置いておくという事もあった。特に子どもが亡くなった場合、葬儀は薄葬で済ませなければならなかったようで、これは貴族といえど例外ではなかった。藤原実資の「小右記」や藤原行成の「権記」にも、幼い我が子の遺体を野に置いていく記事がある。

平安京の外にはこのような死骸が転がっていた。野犬が内裏の中に持ち込んだ子どもの死骸も、そのような幼くして亡くなった子どもが捨て置かれたものなのだろう。今では考えられない恐ろしい話だが、上記の藤原実資は我が子の遺体を野に捨て置いた次の日に、悲しみのあまり失神したり未練を断てず死体の様子を見に行かせたりしているので、決して平安人が特別薄情だったわけでは無いという事は言い添えておこう。

意外と情け深い所もある

有名無実な内裏の番人たち

それにしても子供の死骸を咥えた犬が入り込むぐらいだから、内裏の警備がいかにおざなりだったかよく分かるだろう。そんな守りが手薄な内裏であるが、警備の役所はちゃんと存在していた。しかも六種類も。

内裏の警備を担うのは、近衛府このえふ衛門府えもんふ兵衛府ひょうえふの三つの役所が、各門や部署に分かれて担当した。この三府が左近衛府・右近衛府というように左右に分かれていたので、全部合わせて六衛府と称した。

本来は内裏の護衛を行う役所なのだが、六衛府の長官のポストが貴族の名誉職となるなど、時代が進むにつれてその職務は形骸化していった。そんな六衛府の中でも近衛府は、近衛という名の通り天皇や大臣の護衛を勤め、大事な儀式が行われる際の儀仗兵としても使われたことから貴族社会の中でも重要視された。特にその長官である近衛大将の地位は、大臣職に次ぐ名誉のあるものとして貴族たちの憧れの的となっていた。そして、本来武官のトップであるはずの近衛大将だが、彼らが戦に出ることなど全くなかった。

六衛府の形骸化はこれだけで終わらない。本来、衛門府内の部署であった警察組織の検非違使が、平安京内の治安を担当する職務上次第に権力を増していき、ついには六衛府のお株を奪うまでに成長してしまう。さらに平安時代も末期になると武士の登場により朝廷の武官など有名無実と化してしまった。

こうして存在意義を失った内裏の番人であるが、意外な形でその名が末長く残っていくことになる。平安後期、地方で武士が台頭するようになると、武士同士で領地の争いが頻発するようになる。他家との争いで少しでも優位に立ちたい武士たちは、朝廷から認められることでお墨付きを貰おうとした。

地方の武士たちが平安京までやってきて、朝廷や有力貴族に仕えることを大番役といった。大番役として上京した武士たちは、数年間のお勤めの見返りとして、故郷に戻る際に朝廷の官職を与えられた。朝廷側からしたらどうでもいい名前だけの官職を与えたに過ぎないが、武士たちはその官職を得ることで、地元の武士たちの中でも優位に立とうとした。

そしてこの時与えられた官職が、衛門府や兵衛府の職だった。地方に戻った武士たちは、「我は右衛門佐うえもんのすけ正盛!」や「我こそは左兵衛尉さひょうえのじょう忠孝!」のように、自分の官職を名乗りに使うことで己の正統性をアピールした。やがて武士の世が続くと衛門や兵衛という名乗りは習慣化し、ついには名前として使われるようになった。

戦国武将の黒田官兵衛や後藤又兵衛といったような兵衛がつく名前や、江戸の大盗賊・石川五右衛門のような衛門がつく名前は、あなた方も目にしたことがあるだろう。江戸時代にもなると武士に限らず一般庶民の間にもこのような名前が広く使われるようになった。

我らがお馴染みのネコ型ロボット、ドラえもんの名前もこの衛門府えもんふの「衛門えもん」に由来するし、忍者アニメに出てくるへっぽこ三人組の一人、しんべヱの名前も漢字で書くと新兵衛となり、元をたどれば兵衛府ひょうえふに由来することがよく分かるだろう。

無用な存在とされた朝廷の武官たちだが、武家の興隆という意外な形で後世までその名を残すことになった。何とも数奇な運命と言えるだろう。

平安時代を代表する二人の女性

さて、ドラマ6話の目玉となったのは、何といっても清少納言の登場だろう。清少納言と紫式部、枕草子と源氏物語、どちらも国語の教科書で必ず習う偉大な作家と作品だ。しかし、同じ時代を生きた二人だが、歴史上に現れる期間には微妙にズレがあり、二人が直接面識があったかどうかは実は定かではない。

だが、紫式部が書いたとされる「紫式部日記」には、清少納言に言及した部分が存在する。その箇所を軽く抜き出してみるとこんな感じだ。

「清少納言は本当に得意顔もはなはだしい人。あんなに賢ぶって漢字を書き散らしているけど、よく見ると全然ダメ。ああいう自分を優れてると勘違いしている人は将来きっと失敗します。どうでもいい時でも風流を気取って、自分は分かってますみたいな顔をしていると、自然と軽薄な奴になってしまうのです。そんな人の行末がいい訳ないに決まってますね」

メチャクチャ悪口書いとる。
紫式部の名誉のために言っておくと、別に紫式部が毒舌だったわけでは無い。紫式部日記の中で他人の悪口を書いてあるのはここぐらいだ。しかしそうなると余計にどんだけ嫌いだったんだよと思わざるを得ない。とにかく清少納言は嫌いだという事がダイレクトに伝わってくる一文だ。

ちなみに同じ記事内で前述の和泉式部とドラマにも登場した赤染衛門あかぞめえもんについても言及している。恋多き女、和泉式部については、ふと口にした歌でも必ず見どころのある天才的な歌人だが、他人の歌にあれこれ批評するのはよろしくない、一方の赤染衛門は、歌に風格がある上に、歌人だからといって見栄を張ることもなく奥ゆかしい人物だと評している。この後に清少納言の酷評が来るのだから、紫式部の清少納言嫌いはより一層目立っている。

源倫子の教育係を務める赤染衛門

なぜ紫式部はこんなに清少納言の事を嫌っていたのか。そのことを考えるために、まずは二人の関係について整理しよう。今更だと思うが、ドラマの先の展開のネタバレが含まれるので、まっさらな状態でドラマを楽しみたいという方は注意してほしい。

清少納言は、道長の兄である藤原道隆の娘・定子に仕えた女房(女官)だった。定子は一条天皇の元へ入内し、大変な寵愛を受けていた。父・兼家の後を継いだ道隆の政権は盤石であり、正に我が世の春を謳歌していた時期に、清少納言は定子に仕えていた。

一方の紫式部は、道長の娘・彰子に仕えた女房だ。彰子も一条天皇のもとに入内しており、定子と彰子はライバル関係にあった。それは単純に恋のライバルという話ではなく、父親の政治争いに利用される悲しきライバル関係だった。

兼家亡き後その後継として政権のトップに就いた道隆

道隆亡き後、道長は道隆の息子たちと権力争いを繰り広げる。道隆の息子たちの権力の源泉は、一条天皇の寵愛を受ける妹・定子だった。これに対抗して道長は、まだ十二歳だった娘の彰子を一条天皇の元へ入内させたのだ。結局、定子は彰子が入内した一年後には亡くなるので、後宮争いは道長の勝利に終わるのだが、こうして道隆一族を蹴落とすことで道長政権の権力は万全のものとなった。

そういう訳で、政治上のライバル関係にある二家に仕えた紫式部と清少納言だから、仲が悪かったのだろう・・・と考えるのは早計だ。さっき言った通り、清少納言が仕えた定子は彰子が入内して一年後には亡くなっている。紫式部がいつから彰子に仕えていたのかは定かでないが、どれだけ早くても二人の活動期間は一年足らずしか被っていないことになる。

「紫式部日記」が書かれた頃はもっと後になるので、定子の脅威など遥か昔に過ぎ去った時代だ。そんな時期にわざわざ定子の女房だからと清少納言の悪口を書くのはちょっと理屈に合わない。じゃあなんであんな悪口が書かれているのかというと、紫式部は単純に清少納言のことが嫌いだったという、身も蓋もない話になってしまう。

だが、紫式部日記と枕草子という二人の著作を読み比べてみれば、その結論にも納得するだろう。この二冊を読んでみて分かるのは、二人の性格が正反対であるということだ。枕草子で清少納言は宮廷生活のきらびやかな様子を描いており、自分が定子の女房であり宮廷社会の一員であるということに強い誇りを抱いていることが分かる。一方の紫式部日記には、常にどこか物憂げな雰囲気が漂う。道長一家という権力の頂点を極める家の雰囲気と、その場にふさわしくない自分の存在とのギャップに思い悩む紫式部の姿が印象的だ。

もっとわかりやすい部分で言うと、清少納言は身分の低い人や教養が無い人に対し、かなり辛辣な態度で枕草子に書き残している。一方の紫式部は日記の中で、晴れの行事の舞台で居心地悪げに身を潜めている下人の姿を見て、場違いな所にいる自分の姿を重ねてしまうような性格だ。同じ教養人といえど、二人の気が合うはずが無かった。

ドラマでもぎこちない初対面となった二人

才気煥発として積極的で、宮廷の中で生きる事を誇りに思う清少納言。奥ゆかしさを是とし、目立つことを嫌った紫式部。平安時代を代表する二人の女性は、全く対照的な性格の二人だった。絶望的に気が合わなかったであろう二人だ。紫式部が清少納言に一言いいたくなる気持ちも分かるが、それにしても自分がちょっと日記に書いた悪口が、まさか千年先まで読み継がれようとは紫式部も思わなかったに違いない。

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