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肉と骨ー宇佐見りん『推し、燃ゆ』感想書評ー

“TikTok世代のキャッチャー・イン・ザ・ライ”という大仰な帯について、SNSで少し叩かれていたのを見たこともあり読んでみた。僕は『キャッチャー・イン・ザ・ライ』含めサリンジャーが好きだし、本音を言えば「和製サリンジャー」こと庄司薫のファンなので、現代のホールデンや薫君とは如何なる人物なのか、という興味があった。

読んでみてまず感じたのは「俺この主人公好きじゃねえな」という感情的なものだ。これは誠に個人的な感覚なのだが、サリンジャーも庄司薫も、“生き辛さ”を抱える内向的な青少年を描いてはいたが、彼らは己ではない外部との関係性を紡ぐことで、その生き辛さを超える一端を見出しているように思う。それに対して、本作の主人公であるあかりには、外部との関わりを拒絶するような、それでいてひたすら自分の内面を嫌悪するような、壮絶な内向性を感じる。それが、僕があかりを好きでいられない理由だ。

地の文はあかり視点の一人称で語られるが、特徴と言えるほどに修飾が多い。言い換えれば、あかり流の外界の解釈が表れているとも言える。そしてその修飾の多くは、肉体や生理など、生き物としての生々しさに関することだ。

あたしが重ねて持っているビート板をありがとねと言いながら次々に持っていく女の子たちの頬や二の腕から水が滴り落ち、かわいた淡い色合いのビート板に濃い染みをつくる。肉体は重い。水を撥ね上げる脚も、月ごとに膜が剥がれ落ちる子宮も重い。

文庫版13頁

足の爪は四角いので切りづらく、いつも肉を挟んだ。母が何か言う。肉に埋まったそれを、爪切りの先で抉り出すようにして、また切る。爪のかけらが飛ぶ。ぜんぶ切ってしまうと、指から生えた毛が気になり、毛抜きがすでに使われていることに気がついた。

文庫版72頁

時々母が様子を見に来て、居間と台所を片付けさせられてもすぐに汚れた。ものが堆積し、素足で歩くといつのだかわからない、黒いパイナップルの汁のついたビニールが足にひっつく。

文庫版120頁

小説は、絵や映像と比べて、主観的な感覚を伝えるのに最も特化した媒体だ。触覚や味覚、快不快といった、個人的な感覚との親和性が高く、故に本作は極めて小説的で、小説だからこそ響く作品なのだと思う。
その個人的な感覚は「生身の肉体」があってこそだが、この「生身の肉体」に対する忌避感が近年高まっていると個人的に感じる。
2019-2020に物議を醸したコミックエッセイ『マッチングアプリで会った人だろ!』(冬野梅子)に、こんなワンシーンがある。

ここでいう「生っぽい」とは肯定的な意味ではなく、むしろ「違和感」に近いネガティブなものだ。生きた人間、代謝を行う生物であり、排泄や性欲などの生理的欲求がある存在である、ということへのネガティブな気持ちを感じさせる。
テレビやスマホの画面越しの相手に対して、我々は「生っぽい」とは思えない。古くから「アイドルは排泄をしない」というジョークは有名だが、それはアイドルも生きた人間であるということへの遠回しな拒否を表している。同時に、生理的な機能に縛られることへの反発でもあるように感じる。本作のあかり視点で語られる生々しい感覚描写に、この生きた人間であることへの反発、もっと言えば嫌悪感のようなものを感じてしまう。

携帯やテレビ画面には、あるいはステージと客席には、そのへだたりぶんの優しさがあると思う。

文庫版75頁

作中で繰り返される生々しい描写は、生の肉で構成されることへの嫌悪感を想像させる。あかりが段々セルフネグレクトのように生活が荒んでいく展開と合わさるとグロテスクだ。解説の金原ひとみが「背骨」という言葉に着目したのも、重だるい肉体感覚の描写との親和性があるのだと思う。現実の肉を纏い、重く縛られながら、推しを推すという精神的な支えである背骨を通してどうにか生きていく……、そんな生の在り方が描かれた作品だと感じた。

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