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短歌を小脇に抱えて自由に歩く

短歌を詠んでいる。

調べよう生まれはどこか言葉たち、初めて分かる君たちの意味
自由とは頭悩まし苦しんで、皮肉なほどに自由じゃないね
窓の外、吹雪く大地に新しい地球を見たら、脱皮する僕

(作:7番目)

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自分が自由だと知ったのは社会人1年目の冬だった。
東京で生まれ育った私にとって、初めて赴任した岩手県の初めての冬は予想外のことばかりだった。

慣れない雪、客先への訪問は時刻通りに付けず何度も遅刻の連絡をいれたし、営業所への戻りが遅くなり仕事は全然終わらなかった。目標数字も達成できない見込みが濃くなってきたある日、6時に起きてカーテンを開けると外が吹雪だった。それは猛烈な吹雪で、地吹雪も相まって4階からマンションの下が見えないほどだった。


マジで会社に行きたくない。


何度か思ってきたことではあったが、その時は過去最高にそんな気分だった。その時天啓のように自分の認識が変わるのが分かった。


行きたくなきゃ、行かなくてもいい自由が自分に私にはある。


行かなきゃ、問題にはなるだろう。会社にも迷惑はかかる。
でも、行かないと私が決めることはできる。
無断欠勤したら営業所に居づらくなるかもしれない。
でも、行かなくてもいいと私が判断することはできる。
もしかしたら居づらくなって会社をやめることになるかもしれない。
でも、もう今すぐに新幹線に乗って実家に変えることもできる。


色んなデメリットがあるだろう。けど、私が実は好きに判断していいんだ。
私は実は自由だったのだ。


私が自由だったという事実のほうが、”行く/行かない”の判断より衝撃的に自分の中に響いていた。


え、ホントに私の自由にしていいんだ。
責められるかもしれないし、人として終わるかもしれないけど、え、でも自由なんだ。
これが自由ってこと?


でも、超怖くない??


恐怖心、が次に来た衝撃だった。
私、自由すぎない?こわ。え、だって、ここから営業所でむかつく先輩にキレても、その先輩蹴っ飛ばしてもいいってことでしょ?え、結果無職になったり、人生終わったりすることも自由の範疇にあるってこと?
え、こわ。やらないわ、それ。

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「自由からの逃走」という有名なフロムの本がある。

近代人は前個人的社会の絆から自由になったが、それ故に無力感や孤独感に悩まされており、自由の重荷から逃れて新しい従属と隷属を求めてしまう、という話だ。結局、あの日イヤイヤながら会社にいった私はまさに自由を恐れて従属と隷属を求めたのだろう。
(確か、逃走する以外だと自分の独自性と個性に基づいて積極的な完全な自由を獲得すべきだ、みたいな話だったはず。あまりにも読みにくかった記憶があり再読する気になれない。そのため引用もなし)

一番最初に浮かんできたのは、この本の内容だった。
そりゃ、こんなに自由だったら、逃げたくもなるわ。


それから自分のなかでは”自由”というのはあまりポジティブな感じを持っていなかった。そりゃ本当は”自由”がいいのかもしれないけど、どうせ私達はその自由に耐えられないのだ。無力だし、孤独だし、寂しいのだ、となんか悲観していた。

それを、村上龍の言葉がひっくり返した。

寂しいからだ、と私は答える。そして近代化が終わったという話をする。
「近代化が終わったのにだれもそのことをアナウンスしないし、個人的な価値観の創出も始まっていない、だから誰もが混乱し、目標を失って寂しい人間が増えている、オウムも、女子高生の援助交際も、子どもたちのいじめもこの国の人間たちが抱える寂しさが原因で発生したことだ」
外国のメディアはすぐにわかってくれる。わかった、ありがとう、と取材テープを止めて、インタビューは終わる。では、これから日本はどうするのか、とは絶対に聞かない。個人的な価値観の創出が自明のこととなっている国のジャーナリストなので、「ではこれから日本はどうするのか」という質問そのものが不毛なものだと知っているのである。例えばフランス人はこれからどう生きるべきか、などとフランス人は決して考えない。今、日本全体のことを考えられる日本人など本当はどこにもいない。「これからの日本をどう考えていけばいいのか」などと言っている人を私は信用しない。そんなたわけたことを言う前にまずお前が変われ、といつも思う。システムを変えることで個人が変わる時代は終わっている。
インタビューのあと、おめでとう、と握手をしてきたイタリア人の新聞記者がいた。
「近代化が終わったのは素晴らしいことだ、おめでとう」

(寂しい国の殺人:村上龍)

この本は英訳が一緒についていて、そこにはこう書いてあった。

”It's wonderful that Japan finished its modernization", he told me. "Congratulations!"

コングラッチュレーション!?!?ワンダフルウ??
若干私は混乱したが、そうか、ナルホドそう捉えることもできるのだと気付かされた。

自由をポジティブにとらえて、なんとか自分のものにできないのか。
個人の価値を想像するとはどういうことか。そんな頭の固いことをずーっと考えていた。

同様に、自分でこのもやもやを表現したくてしょうがなかった。このもやもやの原因や背景については本を読んでようやく輪郭がつかめてきたように感じる。
けれども、自分の言葉ではまだ表現できていない。自分の言葉で何か消化をしない限り、このもやもやを克服できたとは言わないのではないか…。

表現しようと思うと、言葉は別のところへ行ってしまう。

言いたいことは暗黒星雲アンドロメダほどもある。そしてまた、言いたいと思って口に出した言葉が音になったとたんに、易く私を裏切ってしまうような気さえするのである。だから残念ながら、私には「名言」はない。
私は、ただ時速100キロでしゃべりまくるだけである。
(ポケットに名言を:寺山修司)

寺山修司ですらそうだったのだ。
私も寺山修司のように時速100キロでしゃべりまくるしかないのか。ある程度言葉を尽くして仔細に話す、ということは好きだしある程度得意だと思っているので、やろうと思った。
だが、言葉はいざ身構えると全然でてこない。必死に絞り出すように毎回書くこととなった。
自由の巨人のまえに、私は武器も持たない無力な存在だった。

そんな時一つの短歌に出会った。また、寺山修司だ。

生命線ひそかに変へむためにわが抽出しにある 一本の釘
(田園に死す:寺山修司)

これに対して吉本隆明がこんな解説を加えている。

これは物語をつよく感じさせる短歌です。つまり手のひらの生命線がきっとどこかで切れていて、手相によれば生命線が切れていると短命な証拠だという固定観念があって、それが厭なものだから切れているところをつなげようとした、という短歌だと思います。
(寺山修司の世界:吉本隆明共著)

この解説から寺山修司の短歌に興味をもった。他にもこんな短歌。

村境の春や錆たる捨て車輪ふるさとまとめて花いちもんめ

なんだか、限られた言葉なのに、そこには想像があるからか、印象が語られているのか、文字数以上に広大な何かを感じた。なんか自由じゃない?とぼんやりと思ったことを覚えている。

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寺山修司の生涯を端的に綴った本の「寺山修司の世界 情況出版」に私が求めていた言葉あった。

心は自由に向けて飛翔していく。その自由をのりきるために修司は<言葉>の<形式>を必要としたのである。

あぁそうか。自由とは乗り切るために”制約”を必要とするのか。
ようやく分かった気がした。不完全なもので表現するから完全なものが表現できる可能性があるのだ。

型破りをするためには、事前に”型”を習得していないと破ることもできない、とは確か中村勘三郎の言葉であるが、なるほど何かを完全に表現するためには何か大きな制限をかけて想像の余地を多く残して置く必要があるのかもしれない。
私のなかでは初めて”自由”に対してポジティブな対応ができるようになったタイミングだった。

そこから短歌の世界を広げてくれたのは枡野浩一さんだった。
ショートソングという短歌を題材にした小説があるのだけれども、その本で気に入った短歌を列挙してみる。

気づくとは傷つくことだ 刺青のごとく言葉を胸に刻んで
階段をおりる自分をうしろから突き飛ばしたくなり立ち止まる

あぁ~自由だなぁ。
こうやって短歌の世界にハマっていった。岡野大嗣さんの短歌も好き。

倒れないようにケーキを持ち運ぶとき人間はわずかに天使
(サイレンと犀:岡野大嗣)
老犬を抱えて帰るいつか思い出す重さになると思いながら
(玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ:岡野大嗣)


こうして私はちっぽけの自分とちっぽけな短歌という武器で、ようやく自由という広大な表現の荒れ地に踏み出すことができたのだと思う。
ようやく、歩き始めただけ。歩き続けられるのかも、本当に歩いているのかも分からない。
それは、これからの楽しみだと思う。

なので、今、私は短歌を書いています。


ま、それだけの、お話。
おしまい。

調べよう生まれはどこか言葉たち、初めて分かる君たちの意味
自由とは頭悩まし苦しんで、皮肉なほどに自由じゃないね
窓の外、吹雪く大地に新しい地球を見たら、脱皮する僕

(作:7番目)

<文中に出てきた本の紹介(アフィじゃないただのAmazonリンク)>

村上龍の小説は近代化を終え共通の目標を喪失した所謂ポストモダンの人の寂しさを描いていると思っている。そのテーゼにストレートに切り込んだエッセイ集。面白い。読みやすい。

著名人が寺山修司について書いている本。谷川俊太郎と吉本隆明のところしか読まなかった。美輪明宏の部分も読みたかったけど、挫折した記憶がある。

寺山修司にいつから興味を持っていたのか分からないが、たぶん親父の影響だろう。その寺山修司が名言集を編纂している。思うに名言集というのは端から端まで熟読するようなものではない。ななめ読みしながら好きな言葉をメモすればいいと思う。

短歌が身近に感じられる物語。あぁこうやって日常の中に短歌があるんだなぁと思える。ただ個人的には物語自体はそこまでそんなに面白くはない、と思う(ごめんなさい)

大人になって初めて自分の意思で買った詩集が<玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ>だった。文字数の制限がある短歌という形式においてここまで自由に言葉で表現されていることは私にとって衝撃だった。胸を掴まれた。たぶん恋だ。
あまりにも衝撃的すぎて、サイン会に行き、会場の目の前まで来て会うのが恥ずかしくなって帰った30代男性がいる。私だ。



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