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短編小説:夜の海に探して

 やはり三月の夜になると、ぼくは海を、その浜辺を散歩することになった。
 昏い冬の季節の間は世界中が凍てついていた。三月になると汚れがごっそり落ちるみたいに、晴れやかな日々が帰ってきた。それで、ぼくにはようやく余裕のある時間ができた。やるべきことをやって、自分を満たすための時間が。しかし、詩は読みつくしてしまっていた。ディキンソンからシェイクスピア。ユーゴーからホイットマン。ゲーテも四周はしたし、ボードレールなんて音読までやりきった。それで音楽も、退屈なクラシックは除いてということだけど、すっかり全部聴いてしまっていた。セイント・ヴィンセントやアデルなんかは目新しくて、とてもそそられていたけれど、それでもすっかり聴き潰してしまった。ココアをいれながら歌った。二月の風よりも大きな声で歌った。お風呂場ではそれはもう上手に歌ったし、昼過ぎには酸欠で部屋がぐるぐると回転し始めていた。もちろん、それらをもう一度繰り返してもよかったかもしれない。使い込まれたオールド・レコードにまた針をのっけるみたいに同じ回転をしてもよかったのかもしれない。しかしぼくは若者だったし、三月の空は美しくて外に出ないわけにはいかなかった。
 それで海を散歩していた。海のことは大好きだった。もう何度この景色に出会ったかわからない。同時に、いつも初めての景色みたいだった。足元に帰ってくる波。向こうから集められてここにあるたくさんの音。ぼくは友人でさえも飽きてしまえば捨ててしまっていた。だけど海はずっと美しかった。どこか、魅力的だった。
 それでも僕はびくびくしていた。それは、この浜を所有していたのはひどいおやじだったから。おやじはぼくが金をもっていないことを知っていたし、夜になってもぼくが浜辺で歌うものだから客が逃げていくと思い込んでいた。それでぼくを見つけた晩にはこわれた倉庫のような海の家から駆け出てきて、箒のちくちくしたほうで痛めつけた。ぼくの白くて優しい肌を箒を振りかざして虐めたのだ。
 ぼくは懇願していた。海はみんなのものじゃないの、と。おやじは詩も音楽も知らなかったし、ぼくの言葉にも耳を貸さなかった。ハウンド・ドッグみたいにうなり出てきて、浜辺でぼくと真剣なかけっこをした。
 だから散歩のときにたとえ折れたマストや、奇跡的に割れないままのガラス瓶を見つけても、持ち帰ることは諦めていた。おやじが所有権を主張することはわかりきっていたからだ。でも、一度だけ砂色をしたヒトデが落ちていたときがあった。それは本当に魅力的で、精巧で、繊細なつくりだった。ぼくはいけないとわかっていながらも、こっそり夜の浜辺を見渡してから、シャツと胸のあいだに隠して盗み、持ち帰った。
 砂色のヒトデをドアの真ん中に飾り付けた。海の男たちがうきわをひっかけているみたいにして。そして、やはりヒトデは魅力的だった。細やかなひだが叙情的な砂色をしていた。魅惑的に伸びた五本の触手はしばらくの間はぼくを満足させた。太陽と月がぐるぐると回転を繰り返して、やがて罪の意識のほうが強くなってくると、ヒトデのことがだんだん怖く見えてきた。ある晩には、その五本の触手が後頭部にへばりついて、眠っている間にぼくの頭を支配してしまうんじゃないかと、ベッドの中で考えてしまった。事実ぼくは眠れなくて、恐怖でヒトデを見に行くこともできなくて、朝がやってくるまで亀のように耐えるしかなかった。
 
 これまで僕はその浜辺で、本当にいろんなものを目にしてきた。底のない壺や、真っ黒になったゴムアヒル、アザラシの牙の半分に、両足そろったままのビーチサンダルとか。ある日にはそっくりそのままカローラが流れ着いていた。タイヤも四つついていた。ダッシュ・ボードも健在だった。車内は隅から隅までどろどろだったけど、イグニッションの鍵さえあればいまにも動き出しそうだった。そういうこともあって浜辺ではどんなものも手に入れられることは知っていた。だけど女が流れ着くだなんて、ぼくには想像できなかった。女は浜の終わりにうちあげられていた。ぼくは女をまじまじと見つめた。どきどきした。三月の晩で、あたりは暗かった。遠くの海の家ももう灯を落としていた。女とぼくを除けば、そこには誰もいなかった。
 女を玄関まで運んできて、ぼくはすっかり力尽きた。女というのものが、こんなにも重たいだなんて。足が十二本もある蟹のときよりも、丸くて大きな真珠貝のときよりも重たかった。だけど女が起きたときのことを考えるとわくわくしてたまらなかった。いったいどんなふうなんだろう? どんな言葉を話すのか、どんな歌を歌うのか? どんなものを好み、どんなものを嫌うのか? 家賃は払っているのか? 健康保険には加入しているのか? 週にどれくらい自慰をして、心細く思うのだろうか? 朝のベッドで、起き出す前に唱える祈りの言葉はどのようなもなのか?
 それでもとにかくぼくが一番初めにやったことは、ハムエッグを作ることだった。もう夜の十一時だったし、きっとおなかがすいているだろうと思ったからだ。ハムエッグを作るなんて久しぶりだった。まあ、うまくできたようにおもう。大皿にのっけてやると、焦げていることはべつにして、それはすごく美味しそうだった。で、ぼくは自分の空腹を思い出して、半分もらった。
 ハムエッグができてもホット・ココアをいれても女は起きなかった。ぼくは女をじろじろ見ながらわくわくして待っていた。が、それでも起きなかった。かたかたと時が過ぎ、夜中の二時になった。が、起きなかった。風はばんばんと窓を叩き、部屋は冷たくなっていった。ぼくはがたがた震えていた。ホット・ココアはだめになり、アイス・ココアになってしまった。流し台はアイス・ココアでも、ひゅんひゅん唸って美味しそうに飲み込んでしまった。ぼくは新しくココアを作りながら考えていた。女はどこから来たのか、どのような話をするのか。女はどのように痛み、どのように涙を流すのか……
 霧の森のように、女はしんとしていた。夜があまりにも深くなって部屋のすべてが沈黙に吸い込まれてしまうと、眠ることもできなくなった。そしてすぐにぼくは怖くなった。マグカップふたつで何度もホットを作りながら、だめになったアイスを捨てながら、ぼくはヒトデのことを思い返していた。あんなにも麗しく見えたヒトデがぼくを乗っ取ってしまう悪夢を。だんだん萎れてきたその触手がまるで悪魔の角のようにくすんで固くなってしまったことを。ぼくは不安になっていた。ヒトデのときと同じで、ぼくは女を盗んでしまったのだ。それが怖かった。フローリングのうえで、女はヒトデのようだった。横になり、目を閉じ、部屋がそうであるようにとても冷たそうに見えた。でも、まだ新鮮なようだった。それでぼくはがたがた震えていた。いつかこの女も、ぼろぼろと形を崩していくのだろう。きっとあるときになれば、皮もくすみ、毛も萎れ、その魅力を悪辣なものに裏返してしまうのだろう。女の内側から赤い泥にまみれた刃が突き出てくるさまを想像した。刃は絹のようなこの肌を切り開き、こぼれる朝日のような輝きの血液がどっと溢れ出してくるだろう。
 家まで持ってきたときと同じで、女を運ぶのはひどく大変なことだった。が、そんなことよりすべてが怖かったから、浜にはずいぶん早くについた。
 降ろすと、拾ったときとちょうど同じようになった。まだあたりは暗かったし、海の家の灯も落ちていた。風だけが変わってごうごうとしていた。

 女は次の朝にはなくなっていた。浜の終わりにも、他のところにも見えなかった。海の家にもいなかったし、沖を泳いでも女とぶつかったりしなかった。ビーチでカクテルを飲んでいるわけでもなかったし、遺失物として交番に届けられていることもなかった。
 女はまるきり姿を消してしまった。きちんと二つそろった足で立ち上がり、どこか遠くに去っていったのかもしれなかった。それでも僕はびくついていた。女を連想させるものに会うと、居所が悪くなった。同時に、浜の終わりを確認しないことはできなかった。あのときのような夜にばかり訪れた。詩も音楽もなく、浜の終わりは静かだった。
 おやじと食事をしても、女の話はできなかった。おやじはぼくの様子を見て、訝しがっていた。懐の箒をちらつかせ、ぼくに自供を促した。それでもぼくは話さなかった。とても話せるようには思わなかった。新しい詩も音楽もつまらなかった。ぼくは悩み、黙り込み、深夜には浜の終わりを訪れていた。夏が来て、冬が来ると、女もなしに一年が過ぎた。
 ぼくは知りたかった。女が何を好み、どんな話をするのかを。いまは女だけだった。あの女は何を表現して、どのように歌うのか。笑えるのかどうか、踊れるのかどうか。ぼくは女に尋ねたかった。
 問題は盗んだことではなかった。他の、何かだった。ぼくと一緒にいた一つの夜の間に、女はぼくから何かを奪っていったのだ。それは失ってしまった今となっては名前も、顔も思い出せない何かだった。ぼくの大部分を占めていたはずの何かで、心の底の最後の拠り所のような何かだった。女は非常に静かに床の上で横たわったままで、ぼくからそれをかすめ取ったのだった。そして、それが帰ってくることはない。
 同時に、女はぼくに何かを植え付けていった。悪魔が取引するように、ぼくからその何かを奪った分だけ、空白を埋めるみたいに違った何かを植え付けていったのだ。
 そして、ぼくにはそこまでしかわからなかった。それ以上の考えは紐がほどけるようで、形を保てなかった。海は陽気だったり落ち込んでいたりしたが、ぼくとは無関係の距離で、目を向けることはなかった。ぼくは浜の終わりでしゃがみ込み、砂に非常につらい思いをしていることを、女に対する複雑なこの気持ちのことを指先で書き込んだ。
 満月で、海の家は壊れていて、すべてが綺麗にそのままで、とてもおあつらえ向きだった。夜の海は無限に小さな音を集めていた。波は黒く足先を濡らし、風は凪いだり、吹いたりを繰り返した。浜の終わりは、沈黙している。それでも女はやってこなかったんだ。ここにはいないのだ。ヒトデの一匹もここにはいないのだ。浜の終わりはそれまでと同じ。音の粒たちが寄せ合って、夜の波が新しく浜を濡らすばかり。


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