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掌編小説:バビロン・シスターズ

 バビロンの街は、正方形の建物でつくられていた。ごく正確に縦横の長さが定められ、民家だけでなく、役所も、肉屋でさえまったくの正方形であり、四角の建築だった。日干しレンガの壁は青で統一され、薄い青から濃い青へ、グラデーションのようにして彩っていた。そんな風景がバビロンの丘を埋め尽くしていた。対岸の港から眺めたときには、虫の巣のように見えた。あるいは、大西洋を横断するアカエイの群れのようだった。
 ニューヨークに出て来ても、結婚してロード・アイランドに住むようになっても、アンは自分の出自をとても大切にしていた。バビロンに住んでいたのは五歳の、春のときまでだったが、それでもそのころの記憶をノートにしっかりと書き留めて、長いこと覚えていられるようにしていた。毎晩、バスからあがるとそのノートを読んで過ごした。眠たくなるとベッドに横たわって目を閉じた。まぶたの裏には雲母のように輝く四角が海のように波打っていた。
 婦人会からの帰り道で彼女は一人の老婆に声をかけられた。歯が少なく、声は小さく、初めは何を言っているのかよくわからなかった。しかしベンチに腰を降ろして話を聞いてみると、その老婆がバビロンの出身だということがわかった。それも、バビロンの南である、ダンの村の生まれだと言うのだ。それはつまり彼女の故郷だった。
 実のところ、彼女は初め、老婆のことを疑っていた。アンが生まれた村は砂漠に半分のまれてしまったような場所で、麦の畑と、灌木と、件の正方形を他にしてはまったく何もないところだった。だが老婆の話を聞くうちにそれが本当であることがわかった。老婆が話した駅舎や医院については、完全に故郷の人々でしか知りようのないことだったからだ。それにしても老婆は醜かった。とくに脚を悪くしていた。老婆はすりむいたのよ、と言った。しかし、それは明らかに嘘だった。脚は黒い砂のようなものがぶつぶつと形をなし、尾根のようにごつごつと固くなっていた。アンが老婆の脚を見ていると、老婆は非常に悲しそうな顔をした。
「故郷の話はどうでもいいのかい?」
「いえ、そんなことはないんです。故郷は、バビロンは好きです」
「脚を見られるのは嫌いなのよ。やめてちょうだい」
「ごめんなさい。そんなつもりは……」
 そのあと老婆がティーを飲みたいというのでアンは二人分のティーを買いに向かいのスターバックスに行った。カウンターの向こう側で、二人の黒人は明らかに働きすぎているようだった。カップを両手にアンが戻って来ると老婆はいなくなっており、アンの鞄も消えていた。アンは紅茶をベンチに置いて辺りを見渡してみた。それでも老婆はどこにもいなかった。秋のストリートがまっすぐに景色を貫いていた。花壇のゼラニウムはほとんど枯れてしまっていた。
 アンの夫は、アンの話がうまくのみこめなかった。少し困ったように、アンの瞳をのぞき込んだ。それからクレジットカードも失くしたのかい? とアンに訊ねた。アンは「いいえ」と言った。
 お湯を貯めたバスに浸かると、アンは自分が困惑していることに気がついた。バス・ルームはストリートのようにしんとしていた。そして、ベンチには紅茶を置いたままだった。
 バスの中で、水は直線だった。それはとても不思議に見えた。アンが不安になり腕をあげると、水はきちんと揺れた。そしてまた直線に定まった。つぎは右腕をあげてみた。水はまた同じように動いて、とまった。鞄にはたいしたものは入っていなかった。生理用品と、メモ用紙くらいだ。鞄も特別なものではない。二年前ドラッグ・ストアで買った、安いトートだった。あとは本当に何もなかった。
 私を騙したけど、残念だったわね。――アンはそう考えた。ただ、なぜか老婆のことを馬鹿にできなかった。アンは、自分の考えていることがよくわからなくなっていた。ほんの少し、混乱しているのかもしれないわ。そう考えた。
 ばた、と音がして水が揺れた。それはふらふらと、老婆のたるんだ肌のように、わずかにだけ揺れた。浮かんでいた数本の毛が水とともに揺れ、定まるとともに定まった。
 アンはそれからすべてを沈めた。水は音もなくアンの前で揺れるように揺れた。アンは顔だけを突き出して水面を凝視していた。そしてまた同じように深く沈んだ。当然水は揺れた。バス・ルームは線を引いたように静かだった。


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