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掌編小説:その箱

 日曜日の朝、紅茶を淹れると私は机に向かって言葉を書いた。死んでしまったあの子の言葉を。手のひらの半分もない、ごく小さな紙切れに私は言葉を認める。「おはよう」、「明日は体育があるんだ」、「これ、プリントだって」、「お母さん、今日って何曜日だっけ?」。

 昼食にラビオリを温めた。仕事の電話があった。皿を洗って、戸棚にしまい、取り出したタンブラーに買ってきた水をついだ。砂糖漬けのレモン数枚を小皿に出して、タンブラーと一緒に運んだ。
 席に戻るとまず書き損じた紙片を集めた。うまく言葉にならなかったものや、ペンの運びが迷ってしまったものを。それらを捨てるとあとには四枚の言葉が残った。私は慎重に一枚ずつ拾い上げて、その箱に納めていく。作業を終えると、心地よい達成感が訪れる。目を閉じて、包まれるような思いを味わう。
 そして箱の蓋を閉じる。そのひどく軽い木箱をなんでもないように机の端へと押しやる。


 つぎの日、私は六時に起きた。顔を洗い、水を飲む。ダージリンのための湯が沸くのを待っている間、高層階のその窓から霞がたなびく朝の景色を眺めていた。どんよりと淡い色に染め上げられたその土地は私を眠りへ引き戻そうとしているようだった。そして、やがて湯が沸く。
 山間を走る国道から外れて少しあとに私は車を下りた。静謐さに守られた山の風景を進んでいくと、真っ白で四角の形をしたそれが見えた。
 近づくにつれてそれは大きくなった。
 それはさらに大きくなり、やがて大きなるのをやめた。

 深緑の作業着を着た若い男が待っていた。私は挨拶をした。男は挨拶を返した。
 私達は並んで歩きながら、業務のことについて話した。不調なのは第四倉庫の冷蔵室だと男は話した。私は冷蔵室の面積、空調システムのメーカー、保存物について訊ねた。男は面積について語り、システムについて答えた。私はメモを取った。歩いている間、他の誰とも出会わなかった。

 狭い入り口を通り、私達は準備室に入った。その間も男は話していた。私はメモを取った。
 男は準備室の電気をつけ、ロッカーから靴を出した。「これを履いてください」と言う。理由を私が訊ねると、「倉庫に入るには必要なんです」と話す。

 第四倉庫への扉を開くと、奇妙なにおいが私の鼻をついた。倉庫は闇に包まれていた。非常灯の弱い明かりが天井伝いに続いていた。男は懐中電灯で照らしながら先を歩いた。私は男に続いた。男は軽やかな口調で私に語りかけた。男の趣味について話していた。釣りについて、キャンプについて。ハンティングについても話した。インターネットを介して参加する特別なビンゴ・ゲームについても。
 男はずっと楽しげに話していた。広々とした暗闇にはその声、特別な靴の音が響いた。「このにおいは肉です」と男は言った。「ここには肉が保存されているんです」。男が懐中電灯をかざす。その瞬間、赤々とした裸の生肉が積み上がっているのがわかる。それまではまったくの闇のように思えていたその空間に肉の山が現れる。
「この上です」
 男は高くはっきりとした声でそう話すと、遠慮なしに山を登っていく。私は戸惑っていた。足元に転がる肉の前で立ち止まっていた。
 懐中電灯の光はいまではずっと上方の、遠いところにあった。男の声も降るように響いてくる。私は詩が趣味なんですよ、と。そして肉の山というのは実に詩的で、素晴らしい。この先にあるんですよ。山の高いところにです。

 私はどうしようもなく、立ち止まっている。やがて男の光もなくなる。私はその暗い土地に取り残される。静かで、奇妙なにおいがする。

 時間が経つと私はたまらなくなってくる。どこに行くこともできない。疲れてしゃがみこむ。そして立つ。

 そしてさらに時間が経ったあとに、私はひとつの肉を踏みつける。その似合わない靴で肉の感触を確かめる。
 それから私はひとつずつ肉を登る。ゆっくりと、慎重になって。
 やがて彼の光と声が上方から伝わってくる。調子がついて、楽しんでいる彼の声が。

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