【HSP】家族に対しても「いい顔」をしていた話【INFJ】
たぶん、ペルソナってやつの話。
アニマだのアニムスだのについてはあんまり知らない。最近『パプリカ』を読んでいたときに、そんなような言葉が出てきていたっけ。
ユングについての勉強はあまりしてこなかった。フロイトの話は散々聞いてきたんだけど。
そんなことはさておき。
わたしがこの心理学的な意味での「ペルソナ」という言葉を知ったのは、けっこう最近の話。
それも、就活の自己分析として16タイプ性格診断とかその手のものを読み漁っていた時期。
人間って、無意識のうちに外界と適応するための仮面を被っているんだー、みたいな。
そんなレベル。
心理学の文脈で無意識の話をしようとするとまためんどくさい。読んで字のごとく、みなさんがよく知っている意味での「無意識」なので悪しからず。
それで、16タイプ性格診断でINFJと診断されたわたしは、INFJの強みやら特徴やら適職やらを求めていろんなサイトをさまよっていた。
どんなものでもいいから、自己分析に使えるものはないか。
そのなかでたどりついたとあるサイト(もう名前すらも覚えていないけど)に、こんなような一文があった。
INFJ(提唱者型)の人は、周囲に合わせて自分を変えるカメレオン人間です。
どんな人間関係においても、居心地のいいポジションを見つける能力があります。
そんなわけなくない?
カメレオン人間? 自分を守るために、自分の色を変えちゃうってこと?
確かにわたしは人間の顔色を窺うし臆病なところがあるし、一生人見知りで口下手だけど、それはどこに行こうが全然変わらないよ?
どこに行っても馴染むまで時間がかかるよ?
自分がいる環境に合わせて色を変えるカメレオンというより、鬱蒼とした茂みの中から外の様子を窺っている、体毛が真っ白のか弱い小動物に近いわけさ。
そんなわけないやい、とその一文をぷんすか否定した記憶があるわけです。
しかし。
しかしですよ。
就活を終えて数年経ったいまになって、その一文を思い出すようになった。
最近、用事があって実家に帰ったときに気づいたのです。
「あれ、わたし、家族相手に対家族用の仮面を付けているかも……」と。
周囲に合わせて自分を変える、カメレオン人間。
あながち間違っていないかも……。
家族に対して仮面を付け替えるというか、表現が難しいけど「両親の中のわたし」でいようとしているだけなんだけどね。
父親が想像しているわたし。
母親が想像しているわたし。
両親ふたりが想像しているわたし。
うーん。
判別は難しいけど、求められているわたしを演じようとしていたことに気づいた。
「仮面を付け替える」というより、「チャンネルに合わせる」と表現したほうがしっくりくる。
両親が求めているわたしに、わたしを近づけていく感覚。
優しくて気が利いて、なんでも肯定してくれるおにのすけちゃん。
趣味が似ていて、お互い好きなものの話をしてくれるおにのすけちゃん。
ゆくゆくは家を背負ってくれるおにのすけちゃん。
そういう、両親の中のおにのすけちゃんに、わたしを近づけていく。
父親も母親もわたしのことを長く見てきたせいか、ふたりのなかのわたしにはあんまり差異がない。
どっちかのチャンネルに合わせられれば、あっというまに理想のおにのすけちゃんができあがる。
まあ、わたしもすごいけどね。
求められている立ち振る舞いを察知して、それに応えているんだから。
良くも悪くも、この人たちの子どもだなーって感じ。
今回は気づいたきっかけが家族だっただけで、職場や友だちやパートナーの前でのわたしを振り返ってみると、同じように「求められているおにのすけ」を演じていたことに気づいていく。
だるいなあ。
それって、他人を喜ばせるためだけに自分を押し殺しているだけなんだよね。
自分を押し殺して相手の要望に応えたところで、わたしにメリットはあんまりない。好き放題言われて、無理なことをお願いされても、「でもまあ、あなたがそう望むなら……」ってなんでも叶えてあげるけど、時が過ぎれば相手はそのことをなーんも覚えていない。
あなたが望むから化粧をやめたし、車も詳しくなったし、サッカーさえも好きになったのに。
これだけわたしを投げうっても、わたしにはなんの得もない。
というか、ほんとうにINFJなのわたし。なんでも身を尽くすのはなんかISFJみたいじゃない?
そうなってくると「本来のわたしってどんなんだっけ」とわたしがわたしを見失っている。
他人の目があるところでは、間違いなく誰かに求められるわたしを演じてしまっている。
まあね、誰かに求められるっていうことが幸せだっていうこともわかるんだけどね。
ほんとうのわたしって、なに?
ガソリンスタンドや駐車場で入ろうとしていたところを横取りされたときに「そこ入っちゃうのー??」とひっくい声で呟いてるのがわたし。
観ていたテレビ番組で、芸人が素人をキツめにいじっているのを見たときに「うわ、気持ちわる……」とテレビを消してしまうのがわたし。
家の中や車の中、誰の目にも晒されず全部のスイッチをオフにしたわたしなんて、そんなもん。
ニュース番組にひとりで文句を言うし、入ってきた虫に容赦なく殺虫剤を吹きかけるし、ぬるぬるする里芋にイライラしている。それがわたし。
基本的にテンションが低いし、世の中のいろんなことにイライラしている。誰ともチャンネルが合っていないわたしを「ほんとうのわたし」と呼ぶのであれば、わたしはこんなにも寂しい人間なのです。
そう考えると、適度に他人とかかわって「チャンネルを合わせる」という行為は、人間をつくっていくために必要不可欠なのかもしれない。
というか、それを両親相手にやっていたことに気づいたときはショックだった。
実家では自然体でいたと思っていたから。
幼少期のトラウマもあるんだろうけど、両親にもあんまり心をオープンにしていないんだ、って。
克服したと思っていたのに。
そんなことに気づいた日の夜、いつもなら絶対にしないような服装で外に出た。
というのも、学生時代にお世話になった教授が「ふだんは着ない服を着て外に出てみるのも、新しい視点が見つかるかもしれないからおすすめだよ」と言っていたのを思い出したからだ。
脚はあんまり出したくないからふだんは穿かないショートパンツに、ちょっと前に騒ぎがあった某YouTuberのTシャツを着て、足元はおしゃれもへったくれもないふつうのサンダル。
コーディネートのイメージは、ずっと地元にいる元ヤンって感じ。
特別ファッションに気を遣っているわけじゃないけど、「さすがにこれはないかも」と着ていなかったアイテムだけを身につけて外に出たのだ。
といっても、ガソリンスタンドとコンビニに寄っただけ。
結論から言うと。
ちょっと恥ずかしい思いをしただけで、別に新しいものは見つからなかった。
誰もわたしを見ていないと頭ではわかっていても、外に着ていくには恥ずかしいYouTuberのTシャツを着て、コンプレックスの脚を丸出しにしているわけなんだから、他人の目を意識しないわけにはいかない。
そのときの、誰ともチャンネルが合っていない、ほんとうのわたしには、自意識過剰と言われようとも他人の目が恐ろしかったのだ。
他人の目からわたしを守るためには、ファッションとか見た目はもちろん、チャンネルを合わせてその場から浮かないように気を配る必要がある。
ちょっと顔が熱くなりながら帰宅したわたしは、こんなことを思う。
「チャンネルを合わせる」って、他人を喜ばせるためじゃなくて自分を守るためだったんだ……。
おや、自分を守るため?
まるで環境に合わせて身体の色を変えていくみたいですね。
なるほど、これがカメレオン人間ということですか。
今回はこんな感じ。おつかれサマー。
最近実家に帰るのにもエネルギーを使います。どうにかなりませんか。
みなさま、よきカメレオンライフをお過ごしください。