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映画 『海獣の子供』にみる、科学と人間中心主義の限界※『海獣の子供』の感想・若干のネタバレを含みます

科学・人間中心主義 VS 感覚・生命中心主義

人間中心主義の限界が来ているよね~。

生態系の乱れや異常気象は結果的に人間に悪影響を及ぼしているし、

人間が自然を支配し、生命を必要以上に奪う行為は倫理的にどうなんだろう。



いやいや、あなたが今何不自由なく生きているのはね、

農耕に始まった自然・環境の活用、工業化、情報化っていう流れがあったからなんだよ。

これからさらに発展していく科学(AIによる生産の効率化や再生可能エネルギーの活用等)が、今の諸問題も解決していくのさ。



ん~、だとしても、豊かな人生を生きる上では感覚に身を委ねたり、

「あ~自分って生態系の一部なんだなぁ」って感じたり、生命中心主義的に生きたほうが良いと思うんだよなぁ。

科学・人間中心主義って結局人間や自分という個体を優先する考え方じゃん?

そんな考え方続けていたらどんどん分断の感覚が強くなって、「結局自分は独りなんだ」って、心は貧相になるばかりだよ。



いやぁ、甘いなぁ君は。

科学や学問は、先人の知恵であり、人生を安全に、善く生きることを探求した結果、今の体系があるわけだよ。

脳科学や栄養学・心理学が培ってきた身心を豊かにする知恵も、経済学や社会学による社会をより発展させるための知恵も、

君は享受せずに、個人的な感覚に委ねて生きるほうが幸せだっていうのかい??

あぁ、君はなんて傲慢なんだ。



何をぉぉ~~~(ボカスカ…)



そんな、科学的な立ち位置の人と、

感覚やスピリチュアル側の立ち位置の人とで、

考え方の対立が起きているように感じる昨今。



どちらが正しいかは置いておくにしても、

「このまま人間中心主義的な考え方で、テクノロジーを発達させていって、

豊かな未来って待っているのかな?」

という疑問を持ち始めた人が増えていることは、事実なのではないかなと思います。



科学・人間中心主義の限界について私がボヤボヤと考えていた時、

映画『海獣の子供』という素晴らしい作品に出会いました。

今日は、この作品の考察を通して、

科学・人間中心主義の限界と、生命中心主義・感覚の可能性について、

考えていこうと思います。




海獣の子供とは


映画『海獣の子供』は五十嵐大介さんの漫画作品を映画化したもの。

2019年に公開された『海獣の子供』は、

独特な絵のタッチや表現の難解さもあってか、賛否は分かれる作品のようですが、

私の中では人生で一番とも言えるような衝撃を受けた映画作品でした。



この作品は、主人公の少女、琉花(るか)が

ジュゴンに育てられたという少年たち、”海”と”空”に出会い、経験する、

ひと夏の不思議な物語を描いたものです。



この作品の中では、詳細な会話の応酬があるわけではなく、

自然を描く、繊細で圧倒的な映像美が中心になっているため、

そこから受け取るメッセージ性は実に多彩だと思います。



私はそんな中から、

科学と人間中心主義の限界を感じたのでした。




クジラたちのソングと、人間の言語の限界


映画の中で度々取り上げられるクジラのソング(エコーロケーション)。

これは有名な話ですが、クジラは人間には聞こえない超音波によって、

複雑な情報を1000キロ先のクジラにも届けられるそうです。



人間のように長い時間をかけて説明せずとも、

視覚的な情報を含めて違う個体に伝えることができるというすごい機能なのです。



クライマックスでの祭り(誕生祭)はクジラのソング(エコーロケーション)をきっかけに

琉花が、時間軸や空間を超えた、膨大な情報量の体験をすることになります。



エコーロケーションという超音波によって、

人間が知りえない多くの情報をやり取りするクジラ。

そして、ジュゴンに育てられたという”空”と”海”も、

人間には理解できない特殊なコミュニケーションを取ることができました(波打ち際や風の中から情報を読み取るなど)。



映画の至るところで現れる非言語のやり取りには、

”人間の言語(そして言語によって体系化された科学や、人間が認知できる範囲)の限界”というメッセージ性を強く感じるのです。



そもそも生物というのは、

自身が生きていくために大切な情報しか受信しないようにできています。

例えばイソギンチャクであれば、移動して餌を求めないために、 嗅覚や味覚・視覚を発達させる必要がありません。

人が見ている情景や、嗅いでいる匂いは、イソギンチャクにとってはどうでもいいので、そもそも受信していない(見ていない、聞いていない)わけです。



その考え方を人間に適用するならば、

人間にとっては、クジラが奏でるような音域の音や、犬がかぎ分けられるような匂いは受信できない(生存のためにどうでも良い)ものなわけです。



そして、人間に受信できていない情報は、

例え存在していたとしても、人間には直接観測・説明する術がないわけです。



もしかしたら観測できていないだけで、甘え上手なお犬様は愛を直接受信する愛覚があるかもしれないし、

寝ることが大切なナマケモノには、「これだけ寝ないと死ぬ」みたいなゲージが、寝覚というもので分かるかもしれない。

でも、人間はその感覚を受信・認知できないので、科学の体系に組み込むことができないのです。



この世界には、私たちの感覚器官では感知・認知できていないこと、

それゆえ決して言語化できないことで溢れている可能性が多分にあります。

広大な海の中で、風を受ける帆のように、

人間には、世界に溢れるたくさんの物事の、ほんの一部しか受け止められていないのかもしれません。




この世界の95%は、見えていない


「僕たちは何も見ていないのと同じだ」

作品内で登場する海洋学者、アングラードが口にするセリフです(個人的にカッコ良いので推しキャラ)。



聞いたことがあるかもしれません。

人間は、宇宙に存在する5%の物質しか観測できておらず、

27%はダークマターという物質、68%はダークエネルギーというよくわからない何かによって構成されているそうです。



ダークマター・ダークエネルギーは、

光やX線・赤外線などの電磁波での観測はできないけれど、

観測できる範囲の現象を見るに「なんかこういう感じ(性質)のやつがありそうだよね」

というものです。

つまり宇宙の95%は「こういう感じのやつありそうだよね」で構成されているわけです。

また、ダークマターは地球に住む我々の周囲にも存在しているようです。



「科学で大体説明できるんじゃないの?」

と思いきや、科学をもってしても、これだけの情報が「こうかも知れない」でできているわけです。


「僕たちは何も見ていないのと同じだ」

というセリフにも、なんとなく納得してしまいそうです。



宇宙に限らず、科学には割と、「こうかもしれない」で構成されていることが多いようです。

例えば、身の回りに満ちている"光"について。


人間が観測できる範囲では、

「光は粒子の性質を持った実験結果が出ましたね。」

「あれ、波の性質を持っているという実験結果も出ましたよ。」

「直接観測する術がないから、粒子でも波でもあるってことにしよう!光の実態は目に見えないから真実は分からないけども!」

みたいな感じで成り立っているようです。

(これは量子力学に関する話なのですが、真実が分からないために、未だに複数の解釈で考察が為されています。)



宇宙や光に関わらず、直接目で見て観測・観察できないことは大抵、

「この観測結果とこの観測結果を見ると、どうやらこう解釈するのが正しそうだよね」

という”解釈”で成り立っているわけです。



リンゴは落ちる、みかんも落ちる、と観測されているから、

「地球の中心に向けて引っ張られている」という解釈が、現状有力になっているわけですが、

「人間には観測できない妖精さんが地面に落としている」のが真実かも知れません。



馬鹿げた解釈かもしれませんが、

誰も見たり、観測したりができない以上、

観測した事象と観測した事象の間で起こっている何かは、だれにも証明できないのです。



これだけ分からないことが多い以上、

万能に思える科学にも、限界があるように感じてしまいます。

そして、人間の認知機能が最強な訳じゃないということを、感じられるのです。




科学・人間の限界が見えてきた現代。私たちはどう生きるべきか。


科学・人間中心主義が限界を迎えている昨今、

私たちはどう生きるべきなのでしょうか。



アリストテレスや子思の言葉を借りるなら、

"中庸"ではないかと考えています。



科学や人間の思考は、真実やより良い世界を作るために、

とても有用なものです。



だからこそ、「科学はエネルギーを下げる」と遠ざけ過ぎたり、感覚だけに委ねたり、

生命中心だからと、害虫を全く殺さずに生きれば良いとか、そういうものでもないと思います。



かといって、

地球の持続可能性を考えれば、

人間が今現在の快楽に浸るためだけに経済を発展させることは、

巡り巡って自分たちの不幸になって還ってきますし、

頭や科学で考えすぎることが、豊かな人生を遠ざけるという考え方も頷けます。



美しい夕日を眺めながら、

「あぁ、あれは太陽との距離が遠くなっているから、

本来波長が長く、地表近くまで届くはずの赤い光が、

届く前に空で大気中の微粒子にぶつかっているんだなぁ。」

と呟きながら美しさに浸るのは、結構無理な話です。



これは極端な例ですが、

頭で考え過ぎるというのはこういう副作用があったりもする。



人生をより幸せに歩むのなら、

科学や言語を用いながら、より良い人生を考え続け、学び続ける。

しかし時には頭を休ませ、感覚に委ねて今この瞬間を味わう。



人間がより安心して生きることを考えながら、

地球全体が良くなるようなアクションを、自分ができる範囲でとっていく。



その中庸を歩むことこそが、

人生と地球を豊かにしていく、

一つの道なのではないでしょうか。



『海獣の子供』からは、

他にもたくさんのメッセージを受け取れますし、

観るからこそ味わえる感情がたくさんあります。



まだ観ていない方は、

是非ご覧になってくださいね^ ^

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