それぞれが人生の課題を背負っている
先日、妻の親戚の法事のため、妻の実家にあった石巻に行ってきました。
「あった」という表現は、文字通りで、今はありません。
震災で流されたためです。
法事が終わった後、妻の通っていた門脇小学校が震災遺構となっているとのことで、見学に行ってきました。
当時、津波は一階部分を丸呑みにしました。
そのため、職員室や校長室の中はグチャグチャになり、そのままの状態で残っていました。
二階以降は津波の影響は受けていないですが、二次火災により全焼。真っ黒な状態でした。
裏手の後者は資料館になっていて、様々な証言や写真、ビデオが流れていました。
写真の下部にある町並み全てが、全て震災で流されてしまったということで、そこに確かに街があり、沢山の人が住んでいたという事実を思うと胸が痛くなります。
そんなこんなで資料館を見終わり思ったことは、「あぁ、皆この出来事を人生の課題として背負って生きているんだな」ということです。
例えば、動画の中で出てきた人たちは、家族を失ったり、懸命に子供たちの命を救ったりしていました。
私の妻に関しても、幸い家族は全員無事で、今はそれぞれ違う場所に住んでいますが、法事で集まったりできます。
どんな人であっても、当時起こった出来事の結果として今があるわけで、それぞれ何らかの荷物を背負って生きているのだと思います。
あの時Aという選択をしたら死んでいたかもしれない。
たまたまBという選択をしたから生きているのであり、生きているというか、生かされているような感覚。
それは妻と結婚した私に関しても同様で、やっぱり震災というもの、あるいはそれによる家族というものを背負って生きていくべきなんだろうと思います。
仮にそれを「人生の課題」と呼ぶならば、それぞれがその課題と向き合い、問い続けなければならないのだと思います。
私はこれまで、自分の課題にも、妻の課題にも目を背けて生きてきました。
これまではそれで良かったのかもしれません。
でも、今回の訪問をきっかけに、私は気付いてしまった。
私は、私の人生の課題を背負い、この人生を生きなければならない。
そう、強く思った一日でした。
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