見出し画像

引っ込み思案な僕にバイバイ #こんなこどもでした

 幼い頃は、色が白くて小児喘息で体も弱く引っ込み思案な子供だった。友達と遊んでいてもリーダーにはなれないタイプ。周りに追従するタイプ。体も弱かったので運動も得意ではなく、かけっこでは後ろの方ばかりを走っていた。ただその分本をよく読んでいた。小学校に入ると図書室には毎日のように行っていたし、貸本屋さんにも毎週通っていた。最も、貸本屋さんで借りるのは漫画本ばっかりではあったが。

 持って生まれた性格もあるのだとは思うが、小さい頃はそんなに目立たずに成長していったんだと思う。そうでありながら、人から馬鹿にされるのは嫌だったし、意地っぱりでもあった。だから失敗することが怖かったのかもしれない。当時は陰湿なイジメのようなものはほとんど存在していなかったので、問題を起こしたりいじめられたりすることもなく過ごせていたんだろうとは思う。

 そんな時最初に訪れた転機は、僕が小学校に上がるのと同時に父親が書道を習い初めて師範の免許を取得し、僕も習うようになったことだった。次第に上達し段も取得するようになると、まわりが注目するように変わっていったのだ。「あ、あの子。字が上手な子だよ」と言われるようになっていった。うれしかった。その後は、父親が開いた書道塾の手伝いもするようになった。子供としてはそれで自分の時間を束縛されるのは嫌だったが、周りから褒められるのは嬉しかった。その内に、小学校の習字の時間は、先生の代わりに朱色の墨を使って他の児童の書いた字を添削する役割を担うようになっていった。なんとなく鼻が高くなっていた時だった。

 習字のことと同じような時期に僕にとっては究極の転機と呼べるような出来事が起こった。それは、小学四年生の時の学芸会である。当時は、市民会館を借りて劇を披露するようなことが多かった。四年生は全員で「レミゼラブル」を複数の幕に分けて披露することになった。基本は全員参加で4クラスあった四年生がそれぞれの幕の演技を担当するということになったのだ。その時、僕の担任だった先生は、「君は朗読が上手だからナレーターをやってみない。ナレーターだけは交代はしないで最後までずっと担当するのよ」といわれた。その時「ナレーター」という単語を知らなかった僕は、全幕に出られるんだったらすごいなと思ってしまいOKしてしまった。

 本番の日が訪れた。僕は、市民会館のカーテンの陰にセットされているマイクの前にたち「たった一切れのパンを盗んだためにジャンバルジャンは。。。」とナレーションをこなしていった。幕の間でも拍手が起こり最後は盛大な拍手で締め括られた。この時までは、最高な気分に浸っていた。

 奈落の底に落とされたのは、数日後。当時は白黒フィルムのカメラで写真を取るのが普通だったが、学校の廊下にクラス別に学芸会の写真が貼り出され、写真が欲しい人は写真の下に名前を書くようになっていた。みんな自分が写っている写真の下に名前を書いている。僕も後ろの方から近づいて写真を探した。が、一枚もなかった。そう、常にカーテンの陰に隠れていたため、写真には写っていなかったのだ。子供心にかなりショックを受けた。僕は、自分で考え判断し意見を通さないと絶対に損をしてしまうんだということをこの時に悟った。それからの僕は、殻を破ったかのように行動も変化していったのだ。

 小学高学年になった時には、人一倍負けん気も強くなり、運動会でのかけっこも二番手くらいを走れるようになっていて、友達もびっくりしていた。習字でも名前が知られるようになっていたので、知名度は上がっていたようだった。最終学年の時には、運動会でみんなの前に立ち開始宣言する役割まで回ってきた。引っ込み思案の性格はもう表には出なくなっていた。完全にバイバイしたのだ。

 そのまま中学生になり、楽しい中学生活をおくり最終学年になる時には、生徒会長の選挙にも参加した。残念ながら生徒会長にはなれなかったが、図書部長になり、図書室の管理や本の購入などを仕切る役割を担った。

 卒業間近になった。卒業生は、たいてい卒業記念品というのを残すために壁画を描いたり記念になるものを作ったりするのだが、僕は「図書を寄贈しよう」と言い出して、その案を通した。そして、100冊の図書を寄贈することにして、代表で本屋さんに行き、寄贈する本も決定したのだ。なんとなく、気持ちよかった。

 やはり、人前に出たり、提案したりすることは重要だと再認識した時だった。しかも、100冊本を買いたいと言った時の本屋さんのおばさんの驚いた顔が一番忘れられない。今でも思い出すと笑いそうになる。当時は、また立ち読みする中学生がきているんだろうという目つきで見られていたのが、学校に卒業記念で寄贈する本100冊を決めたいと告げると手のひらを返したような態度となり、倉庫の方まで案内されたのだった。大人の世界を垣間見た瞬間だった。

 振り返ると、習字を始めたことは父親のおかげであり、学芸会で気づきを与えてくれたのは担任の先生だった。最も、僕の考え方の転機になると思ってそうしてくれたわけではないと思うが、それでもこのことがなかったら引っ込み思案の子供のままで成長してしまっていたかもしれない。そう思うと、今となっては、感謝しかない。

 自分を振り返って子供の頃を考えると、ずる賢くもあり真面目でもあった子供だったなと思う。小さい頃は小児喘息を患っていたこともあり、余計に引っ込み思案だったのかもしれないが、成長と共に小児喘息が姿を消していったことも活発に動けるようになっていった一因かもしれない。しかし、習字と学芸会の経験はそれ以上に小さかった僕の心に刺激を与えたと思う。もし、昔に戻って同じ転機になるようなことを経験したら、また同じように考えるのだろうな、きっと。



お題企画を受けて、記憶の引き出しを開けてみました。遠い遠い記憶ですが、はしゃぎ回っていた時代もあったなと懐かしく思い起こしました。かけていないエピソードもありますがそれはまた次回ということで。
糸崎さん、素敵な企画ありがとうございます。


☆ ☆ ☆
いつも読んでいただきありがとうございます。
「てりは」のnoteへ初めての方は、以下もどうぞ。

#こんなこどもでした #思い出 #学芸会 #運動会 #習字 #ノンフィクション

この記事が参加している募集

#スキしてみて

525,778件

よろしければサポートをお願いします。皆さんに提供できるものは「経験」と「創造」のみですが、小説やエッセイにしてあなたにお届けしたいと思っています。