見出し画像

【SS】若い夫婦の定食屋さん

 かなり昔の話になる。古い記憶を辿って回想してみると、ほっとなごんだ定食屋さんのことを思い出した。

 私が住んでいた目黒区を通っている東横線の学芸大学という駅に近い安アパートには風呂が付いていなかった。必然的に銭湯に行くことになる。当時は銭湯も賑わっていたように思う。バイトを終えた私は、銭湯が閉まる前に駆け込んで入るのが日常的なルーティンとなっていた。そして、お風呂に入ってスッキリしたところで、遅い晩御飯を食べるのだ。安アパートと銭湯のちょうど中間あたりに夜遅くまで営業している定食屋さんがあった。この定食屋さんは若い夫婦で営んでいてカウンター席しかないようなとても小さな定食屋さんだった。その雰囲気が家庭的であったかい空気を感じたのでいつしか銭湯の帰りにいつも寄るようになった。

 だいたいは店に入っていつものカウンターに座り注文する。ビールと生姜焼きが定番だったように記憶している。すると若いご主人は「いつもありがとうございます」と威勢よく声をかけ、注文した定食を作り始める。横にいる奥さんは黙ってビールの栓を抜いて私の前に置かれたコップに最初の一杯だけ注いでくれる。風呂上がりの私は暑くなっている体を冷やすかのように、コップに入ったビールを一気に飲みほす。そのあとは、手酌でビールを瓶からコップに注ぐ。なんとも家庭的な空気をそこに感じていた。ビールを半分くらい飲んだ頃に定食が出来上がり目の前に出される。うまそうな匂いが鼻から入りお腹まで刺激する。時間はすでに23時を回っている。途中下車して定食を食べにくる人はいないので、この時間に店にいる人はきっと近所に住んでいる人たちだろう。客のほとんどは若い人だった。

 見知らぬ他人同士が一軒の小さな定食屋さんに入ることで、他人から知り合いに変わることはよくあった。隣の人から「まぁ、一杯飲んで」とビールを注がれることも珍しくはなかった。でも、私は、私から「一杯どうぞ」といったことがない。怖かったのだ。それっきりになってしまうことが。

 人は一人で生きていく動物ではなく助け合って生きていく動物だと思っている。だから、知り合ったら、その縁を大切にしたいと思う。もし会えなくなるのなら、最初の一歩を踏み出さないほうがお互いのためかもしれない。そんな心のブレーキを私はいつも踏んでいた。

 今だったら、隣の人に「一杯どうぞ」と言えるだろうか。


☆ ☆ ☆
いつも読んでいただきありがとうございます。
「てりは」のnoteへ初めての方は、以下もどうぞ。

#ショートショート #定食屋さん #思い出 #小説 #創作

この記事が参加している募集

スキしてみて

よろしければサポートをお願いします。皆さんに提供できるものは「経験」と「創造」のみですが、小説やエッセイにしてあなたにお届けしたいと思っています。