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こんなぼくが関西(九州)の塾講師をやめるまで(最終回)

ぼくはこうして教壇に立てなくなった

個別指導の部門の部長に言われたことは、
・教壇に立つ資格はない
・アンケートが如実だ
・事務になるか本社勤務になるか選べ

であった。

まず1つめは、その個別指導の部長は今年個別部門になったばかりで、
教壇に立っていたぼくを知らないことだ。
なぜそれがわかるのか。

2つめのアンケート。
個別指導部門にアンケートはない。
多分「碩学」のときのことを言っているのだろう。

結論、僕は本社勤務を選んだ。

大きく手取りは下がった。
20万を切った。35でこれか。

精神に異常をきたし、
朝10時の出勤ができなくなった。

しかし、どうしてももう一回教壇に立ちたかった。
そこで、九州のある塾から話をいただき、転職することになった。

九州のZ研での糾弾の日々

ぼくは経験者として、福岡県Y市の校舎に赴任することになった。

結論、これが大失敗だった。

教室長が1人。補佐の副教室長が一人、ヒラの社員が3人、
事務の女性が1人。

生徒はすごくよかった。

ただ、ド体育会系であった。

副教室長は特にひどかった。

例えば、ぼくがよく覚えていることだが、
夜8時頃、ある女性生徒の親が「退塾届」を持ってきた。
退塾届を持ってきているということは、
ほぼ退塾の意志は変わらないということだ。

ちょうど、授業がなかったぼくが対応した。
色々と説得した。その女生徒をぼくは担当したことがなかったが、
必死にこれからのこと、これまでのことを伝えた。しかし意志は固かった。
そして、「退塾届」を受け取った。

知らない生徒の退学を「止めろ」

その後のミーティング。
ぼくは真っ先に副教室長から言われた。

「森先生、なんで止めなかったんですか?止めてください」
「止めなかったのはあなたの責任です」
「上に伝えます」

知らない女子生徒、決めている親。
一体何をすればぼくは良かったのだろう?

契約もおかしかった。
苦手な英語の授業はない、との契約のもとで入社したが、
常に英語の授業はあった。

あまりにも英語のアンケートが悪かったので特別模擬授業が組まれた。
それを見ていた若手講師Hは
肩ひじをついて、ニヤニヤしていた。
「俺のほうが上手いやん」
そりゃそうだろ。ぼくは社会科の講師なのだから。

おもんないっすよ

H講師は終わるとおもむろに言った。
「おもんないっすよ」
「僕のほうが面白い授業ができますね」
「硬いんですよね~」

ぼくは君の倍授業経験があるが、君の授業のとき、
寝ている生徒が多くいることを知っているか?
君の授業がレベルが足りないから、
上のクラスを任されているのを知っているか?

その後彼の授業を見たが、
ぼくは思った。
(眠いわ・・・でかい声で叫んでるだけやん)

暴言は続く

ある日は副教室長S氏にこう言われた。

「やることないなら帰ってください」
「自分で仕事を見つけてください」
「親からクレーム来てますよ。何してるんですか」
「何しに会社に来てるんですか」
「邪魔なんですよ。みんな迷惑してますよ」
「教えましたよね(教えてない)」

副教室長、S氏を今でもパワハラで訴える気もある。
彼の新車のプリウスは、
ぼくへの暴言の上に成り立っている、のかもしれない。

入社半年でこれである。
ぼくは出社30分前まで、起きれなくなった。
心療内科ではうつ状態と判断された。

9月、ぼくはY教室で働けないことを告げ、
I教室に移動したが、結論は変わらなかった。
S先生が別のK講師に変わっただけであった。

Y教室がI教室に変わり、講師は変わらない。

ここのエース講師、K講師に生徒の前で罵倒されたこともある。
挨拶を無視されたことなど2桁では足りない。

K講師はSS級という、講師として最高の栄誉を与えられた講師だ。

ただ、人間としては・・・である。
教室長は助けてくれなかった。
暴言も数多く言われた。耐えられなかった。
今、ぼくは社労士の勉強をしているが、全てはそのためだ。

復讐だ。

塾の離職率は上がる一方だ。当然だ。老害が多いからだ。
この仕事は、長くは続けられないし、
ベテランは居座り続け、悟った若手は出ていく。

もう限界だった。
生徒は大好きだが、ぼくは講師が大嫌いになった。

ぼくは1月に親と話をし、
3月に退職をし、行政書士を目指した。

まちがいなく、ぼくはZ研という塾のため、
教壇に立てなくなってしまった。

今回まで、かなりイニシャルや塾名を変えてきたが、
今回の内容はすべて本当のイニシャルである。

次回「こんなぼくがオンライン塾の講師になるまで」

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