こんなぼくが関西の塾講師をやめるまで(前編)
中学受験の世界
あたりまえではあるが、ぼくは田舎出身だったため、
中学受験をしたことがない。
以前中学受験をしようとした
(中高一貫校がそもそも少ないのが長崎県だが、そこにも「青雲」という名門校がある)が、
「お前の頭では無理だからやめとけ」という父の言葉で諦めた。
まず、塾もなかった。
関西のお母様方は目が肥えている。
以前『二月の勝者』というドラマがあったが、
漫画も有名で、漫画のほうがかなり実際の塾業界をリアルに描いている。
相当取材をされたのではないだろうか?
ぼくが入社した2002年は就職氷河期で、
なんとかしがみついた会社だったが、周りの人間はすこぶる優秀だった。
先輩には大学院でウイルスの研究をしていた方や、
塾業界でしか使えない言葉だが「銀本」「電話帳」を20冊以上全部解いたといわれるレジェンドと呼ばれる算数の先生、
女子に絶大な人気を誇る国語の女性講師。
同期には中学入試を経て京都大卒もいたし、医学部出身もいた。
大学院の博士課程を経て、博士号を持っている人までいた。
コミュ力のバケモンやジャニーズにスカウトされたと噂のイケメンもいて、
学歴もほぼ国公立大を優秀な成績で突破してきていた。
さらに、一個下である。付き合い方に困ったのも事実だ。
社会人のイロハは叩き込まれていない
ぼくが困ったのはまだある。西宮市だったのだが、社員寮が狭い。
かなり安かったので助かったが、トイレや風呂は共同。
最初はここでぼくは先輩のS先生に出会い、
色々な「塾講師のイロハ」を
叩き込まれた。
予習は会社ではしない。
あいさつは先生をつける。
電話対応や困った生徒のこと、何でも聞いた。
後に書く「算数検定」のこともS先生には相当お世話になった。
麻雀に何回も誘っていただいた、イケメンのホープだ。
ただ、ここで「塾講師のイロハ」と言ったのは、
まだぼくはここでは「社会人のイロハ」を叩き込まれていないという
ことだ。
塾のセンセイは学校と同じで「背広が似合わない」とか、
「夜の仕事なので太る」とか、「離職率が高い」とか、
「いつも走っている」とか言われるが、全て事実である。
ただ、学校の先生と似ていて、閉鎖的な空間であり、
塾のセンセイに一回なったら、ずっと塾業界という方は、少なくない。
異業種への転職はなかなかないのだ。
名刺すら、一年に二、三回、学校の先生がいらっしゃったときくらいしか
渡さない。飛び込み電話はするが、営業はしないのだ。
授業が商品なのだから。
その意味では、ぼくは「社会人になりそこねた」。
そしてその傷は、今もまだまだ残っている。
先輩が強すぎる
「伏魔殿」に来てしまったと本気でぼくは思った。
当時の社会の講師は3人。
エースの講師はもともと学校の先生で、
公教育と私教育をともに知っており、高校数学も教えられる
地理が得意な人だった。
ニ番手の先輩は、歴史マニアと言ってもいいほどで、知識が多いうえにしゃべりが落語家なみに上手く、この先輩が教育係となった。
※ただし、この先輩はめちゃくちゃ厳しかった。
もう一人は女の先生で、既婚者ではあったが20代後半。
若くきれいな先生で、生徒アンケートの結果は抜群。
一位と二位をいつも取っていた。
もともと塾講師の女性は人気が高い。
女性の生徒はあこがれるし、
男子生徒も6年生にもなれば「あの先生きれいだな」という気持ちも何らおかしいものではない。
ただ、この「社会科」は、4年連続1年での離職者を出していた。
生徒の人気は格段に良かった。
ただ、今回は離職者は出せない…とのことで、ぼくは大事に育てられた。
しかし…期待には答えられなかった。
会社では年2回生徒アンケートがあった。
「授業はわかりやすいですか」「授業は面白いですか」「テキストは…」「これからもこの先生に習いたいですか…」ほどの項目があり、5,2、0、-2、-5と点数化され、会議で発表される。
ぼくはそれまで講師というものをしたことがなかったので、
必死にくらいついた。予習もした。
授業研修も、模擬授業もたくさんした。
エア授業(シャドーティーチング)も何回も、何十回もやった。
問題は、生徒だった。いや、ぼく自身と生徒だった。
新人が持たせてもらえるのは基本的に能力が劣る子のクラス。
イヤイヤ塾に来ている子ばかりだった。カンニングする子もいた。
または入ったばかりの生徒。
必然的にどうなるか?アンケートの結果は悪くなるに決まっている。
わからないから下のクラスにいるのに、熟練度の低い講師が教えたらそりゃダメだろう。叱る。怒る。するとますますやらなくなる。悪循環だ。
何回もぼくはそのことについて「できない最下層の生徒はベテランの先生が持つべきではないか?」と上司に言ったが、とりあってくれなかった。
アンケートの結果は、当然最悪だった。
100人以上の講師がいたが、ぼくの一年目上半期のアンケート成績は
下から2番めだった。
しかも、ワースト1位は一コマだけ補習授業を持っている大学生であった。
生徒は笑う
下半期の僕の努力をあざ笑うかのようにアンケートは急落した。
受験間際になっても、生徒は努力をしなかった。
ぼくの声はとどかなかった。
ある印象的なことがある。
冬期講習、12月末に講習があり、予想問題を準備し、
それを解かせて解説する授業があった。
そのとき、ぼくは一度だけ女子のトップ層の授業を持たせてもらった。
しかし、ここでも生徒はぼくの授業を聞かなかった。
偏差値60、70の生徒、おそらく学校ではおとなしくしているのか、
それとも学校でも学級崩壊しているのか。
ぼくが大きな声で話をしても、生徒はぼーっとしたり、
横の友達と話したり。
ついに国語担当だった女性の国語講師の方が教室にどなりこんできた。
ぼくたちの授業は一階のモニターで見ることができる。
おそらく国語教師の担任は
ずっとぼくの授業を「監視」していたのだろう。
「あんたたちねえ!そんなんじゃ受からん!ちゃんと話を聞け!」
国語講師のかたは怒号を飛ばして帰られた。
そのあとしばらくはおとなしく生徒は聞いてくれたが、
10分後には同じ状態であった。
ぼくは生徒からも先輩講師からも上司からも講師失格の烙印を押された、
と思った。
お前、やめろ
また、時期は少し前にずれるが「算数検定」というものがあった。
中学受験の算数のテキストを1冊渡され、1000点満点で5回テストを受け、900点以上で合格するというものである。
社内テストのようなものだ。
そして当然、はじめて出逢う中学受験数学、
全く手が出せない問題も数多くあった。
ぼくは同じく新入社員の中で、中学受験部門の中で最下位となった。
580点であった。
他の部門(個別指導や高校受験など)の職員も受けている中で
素点が低い中学受験部門がいるのだから目立つ。
ぼくは、同期の受験したメンバーの中でひとりだけ、落ちた。
高校時代と同じである。
のちに部長(中学受験部門の管轄)に呼び出され、
「お前、やめろ」
と言われた。
頭が真っ白になった。
翌日、1階でのミーティング中、急に足元に走り高跳びのマットが敷かれているような、ぐにゃぐにゃの状態になり、心臓の動悸が止まらなくなった。
しばらくして上司に相談し、授業に穴はあけられないので、
休憩時間を利用して内科のかかりつけの病院に行った。
心拍数は200を超えていた。
看護婦さんの「え?」という声をまだ覚えている。
20年間のお付き合いとなる「パニック障害」との出会いでもあった。
今ではパワハラ認定そのものだ。ただ22年前のぼくの時代には
そのような言葉はまだなく、ただうつむくしかなかったのだ。
左遷・そして…?!
一年が過ぎ、ぼくは本社のある西宮市から、
S市というところで仕事をすることになった。
新しい教室を立てて、そこで授業をすることになったのだ。
ぼくの世代の講師は全員、いったん他教室を
経験させるという方針であったようだ。
しかし当然、実力のある講師は半年で戻された。
京大卒は半年、ジャニーズはすぐに退職していた。
事務の子が2人いたように思うが、すぐに結婚・退職した。
同期は7人になっていた。
ぼくはS市でもがいた。
もう最底辺まで落ちたんだから。
悩み苦しみ、もがき、一緒にS市で授業をするようになった男
(仮にTとする)とも、喧嘩もし、飲みに行き、
後輩もできた。
後輩も授業はムチャクチャ上手かった。
2年目のアンケート上半期で・・・
ぼくはその中学受験部門全体で2位になった。
アンケート最強の女性講師も、
イケメンの算数の先輩も、
地理の先輩も
歴史の先輩も
京大卒の同期も
全部ぶち抜いて2位になった。
「お前何があったんや。不正か?」
部長は冗談めかして言ったが、たぶん一番驚いたのはぼくだ。
「は、はあ…不正ではないです」
これにはからくりがあるのだが、それは後日。
そして1位。
1位は、今でも「第一の恩師」と仰ぐN先生であった。
持っている生徒は59人。
そのうち「とてもわかりやすい」が58人、
「わかりやすい」が1人、
「とてもおもしろい」が59人と、
アンケート最強の女性講師ですら届かなかった5.00を記録していた
(なおぼくは4.62であった。また、他のアンケートではその女性講師は満点を数回記録している)。
しかも算数で、である。
ぼくは敬意をこめて以前の名称である「専務」と呼ばれていただいていた。
※専務はいったん腎臓の病気で第一線を退き、復帰された。
この方の存在が、塾講師としてのぼくの全てを変えたのだ。
こんなぼくが関西の塾講師をやめるまで(中編)に続く
※プライバシー保護のため、内容は少し変更していますが、大まかな内容は事実です。