一家の顛末 8

「奥様~!」
そう言いながら急ぎ足で寄ってきてニコニコと優しく話しかけてくれるのは、実家の売却を依頼した不動産店の担当者だ。
彼のことは好きだ。最初から好印象だった。

夫の後から話し合いの場に出て行った私を見るなり、わざわざ席を立って歩み寄り、名刺を差し出してくれた。小さなことをうやむやにしないしっかりした人なんだろう。
まめに連絡をくれて、話し合いもこちらの話を聞きつつ妥協できる範囲での提案をそつなく出してくれる。

まさに完璧だ。悪くない。
普通の、市場価値のある不動産はこうも簡単に気持ちよく売却できるものなのかと驚く。
対照的な負動産の売却でどん底に叩き落され泣いたからこそ対比が際立ち、まるで日当たりのいい天国にでもいる気分だった。


夫の転勤が決まり、実家から他県へ引っ越すことになったので、住まないのに持っていてもしょうがないということで実家を売却することになった。
複数社に声をかけ色々と検討をして決めた不動産会社と専売契約を結び売却活動をしてもらった結果、2日という異例の速さで購入者が現れた。

義父を亡くした直後の夫を別業界へ出向させ、翌年すぐに転勤の命令を出す夫の勤務先には納得いっていない部分が多いが「転勤」という理由がなかったら私たちは何もかもをズルズルと先延ばしにして、未だに危険な土地を持ち続けていたかもしれない。

夫も慣れない業務に翻弄され、遺品整理と負動産処分についてはほとんど何も出来なかったが「義父の生前からずっと懸念していた遺品整理が終わりホッとしている。土地については亡くなってから初めて存在を知ったが、手放せてよかった。」と言葉では言ってくれる。

これでよかったのだと思いたい。


転勤までの短い春を高台に建つ実家から街並みを眺め過ごす。
とても暗く不安な気持ちで年末、除夜の鐘をここで聞いていた時には考えもできなかった状況だろう。


この街には擁壁が多すぎる。
どこを見ても、それはある。

この辺りは新しい擁壁が多いが、視界の先の山の向こう、隣町には耐用年数をとうに過ぎた擁壁が身を寄せ合うようにひしめいている。
私たちが処分した土地の周りも、同じような状態の土地がたくさんあった。

どれも人が住んでおらず、捨て置かれている土地がほとんどだった。
将来は地域ごと崩れて行ってしまうんだろう。
高度経済成長期、世帯数の増加とともに新規の宅地を求めて「せーの」で一気に造成された土地は一気に崩れ去りつつある。

平然とその横に住む人、行き交う車、通行人・・・そういった人々は古い擁壁の下を通っていても「危険だ」といちいち認識していない。
擁壁が崩れて自身が被害を受けて、そこで初めて所有者の責任を問うだけだ。


土地は一度取得したら売るまで手元から離れていかないし、過剰なほどの責任がついて回る。
所有者が死んでもその子供、親戚、そういう人たちに強制的に引き継がれ膨大な費用と手間を食う。
土地を手放せるという国の制度こそあるものの、相当限定的で困っている人が到底利用できる状態ではない。

一度自身についてしまったら、死ぬまでついてまわり、手放すことは許されず、子孫に強制的に引き継がれ・・・土地とはまるで末代まで続く呪いのようだ。



あくまで擁壁が原因で起きた事故の責任は擁壁の所有者にあると理解はしている。
しかし、今回強制的に擁壁を所有させられてしまった経験から、こうも思う。

今何気なく歩いている道の脇にある擁壁所有者のリスク負担の上に私たちの安全はタダ乗りしているだけだと。



今回は市が土地を削り設置した擁壁ごと土地を「後よろしくね」と押し付けられた。

県も市も国も絶対に助けてくれない。
市役所にも市が設置した擁壁の管理は誰が負担するのかのか聞いたが、個人の所有地の中にある擁壁は所有者に維持管理をしてもらうという回答だった。

つまり市は、市の所有地でなく市民の私有地に擁壁を設置し、後の維持管理はその市民が全額負担を、と言っているのだ。
市道の交通者の安全をただの一般市民が負担させられていることになる。

そもそもの擁壁を設置するときに、誰とどういう話し合いが行われたのか、契約などは交わしたのか、何らかの金銭が支払われたのか資料が破棄された今では何も知りようがない。

全ては完璧に闇に葬られたまま終了した。


土地に関わったものが少しずつ不誠実であり、無責任であり、ものを知らなかった故に蓄積されたマイナスが一気に私たちにのしかかり、少なくとも私は本当に怖い思いをした。

義父の死をきっかけに日常からいきなり非日常に引き込まれ、必死にもがいているうちに日常へ放り戻された。
記憶も所々曖昧で主要な出来事以外はあまり覚えていない期間もあるし、白髪まみれになり顔つきが変わる前の私がどんな姿をしていたのか、もう思い出せない。

そして、私がネットストーカーまがいのことをしてしまったり、書類提出を渋る人たちを裁判という言葉で脅してしまったという事実は消えないし、相変わらず私の人生は汚されたという感覚も消えない。

「あれはなんだったんだろう?」そういう思いから夫にその頃の話をしてみるが、この話をするたびに夫は気まずそうな顔をして黙り込むので話が出来ず、一人で色々思い出し考えていると、あれはただの長い悪夢で、本当はあんなこと起こっていなかったのだろうかと思う時もある。


私はただ、リスクを回避しようと必死に行動したが、夫家の先祖代々の土地を金銭と引き換えに手放させてしまったという結果を呼んだ。
そのことに後悔はない。

夫一家に名を連ねたことを失敗だとは全く思わないし、夫祖母との約束を反故にして夫を手放す気はない。
ただ、私が夫一家にピリオドを打つことになったことを突然思い出して、後悔しそうになることはある。

これでよかったのか、本当に自信を持って「これでよかった」と言えるのかわからない。
それでも、同じ場面に遭遇したら私は何度でも同じ行動をするだろう。


あれから数年経った今でも時々、当時の書類や全員の印鑑が揃った遺産分割協議書を収納から取り出して眺め、あの土地がもう自分の手元にないことを自分自身に対して証明しながら生活している。

厚さ8センチの書類の束、私はこれを一生涯捨てられず転勤生活の中で後生大事に持ってまわり、何度も確認しながら死んでいくのだろう。



何故、土地の処分が終わった後もこんなにも恐怖が尾を引き消えないのか不思議だったが、思い出しながらこの話を書いていて、徐々に認知が歪み、激しい感情に翻弄され追い詰められていく私の様子がよく分かった。

一般的な不動産の取引では不動産の知識があるとスムーズに話が進みとても楽だ。
しかし知識は時として凶器となる。
私は負動産の処分をする者として動くには知識がありすぎ、責任の問われ方や抜け道のなさを知りすぎていたがゆえに非常に強いストレスに晒されてしまった。

しかも建築物の強度や構造など、そういう方面の専門知識がなかったゆえにリスクばかりを過剰に見つめすぎていた。
中途半端過ぎたのだ。

元々引っ込み思案で「よく躾された人間」だったがゆえに不安が強く悲観主義的だったのも良くなかった。
ただただ向いていなかったのだ。



義父が亡くなって、先祖代々の土地を手放し、実家も無くなった。
夫と夫兄弟は、お互い離れて暮らしており、集まる場所も機会もないのでよほどのことがない限り会うことはないだろう。
彼らは多くを語らないが、あまりに困難な子供時代を過ごした。


一家のお墓は、義父があらかじめまとめて支払っていた分の墓地の管理費が尽きた時に墓じまいをした。
合い見積もりを取って行ったそれには、散骨費用が含まれていた。
他にもいろいろやり方はあったかもしれないし、できたかもしれない。
でも私は止めもしなかった。止める理由すら失っていた。

本来だったら手厚く供養されるはずだった義父たちの骨は暗く冷たい海底に散っていった。


お気づきだろうか、最初は義父に対して冷たくしてしまったという罪悪感を覚えてすらいたのに土地のことを知れば知るほど、その感覚は薄れ今では何とも思わないようになってしまったことを。

私は義父の遺品整理をした時の場面で、
「残されていた本からは、もっと自分に自信を持ちたかった。劣等感を周囲に悟らせたくなかった。もっと広い世界へ羽ばたいていきたかった。そういった義父の切実な葛藤が見て取れた。
高額な開運グッズからも、義父の置かれた状況や気持ちが痛いほどに伝わってきた。
こんなはずじゃなかった。ひとつひとつがそう叫んでいるようにも見えた。」
と書いた。


しかし裏を返せば、義父はどんな時でも、自分が他人からどう見えているかが一番の心配で、より賢く素晴らしい人物に見られたいし褒められたい、でも自力で幸せになるのではなく他人にどうにかしてもらって幸せになりたい―そういうふうに考えていたと受け取ることができる。

そして義父は、それを大量の本を読むことで実行しようとしていたに過ぎない。


確かに彼もまた困難な子供時代を過ごし、持病でままならない中で夢を諦めてきたのだから仕方のないことかもしれない。
しかし目上の人と他人にいい顔を見せたいがばかりに、私や夫が蔑ろにされてしまうことも多かった。

特に私は外では「今どきの価値観に理解のあるように見せかける義父」に話を合わせながら、内では「昔ながらの一家の長であろうとする義父」の対処に追われ、薄っぺらい表面しか見たことのない他人から「義父を邪険にして夫の収入をじゃんじゃん使い込む鬼嫁」という扱いを受けたりと、いわれのない中傷と扱いのギャップに随分苦しんだ。

まだ私が他人だったとき、義父は「彼氏の今どきの優しいお父さん」を演じ、私にいい顔を向けようと努力していたので気付かず家族になってしまった。


また、義父は物を買い与えることで他人と交流を図ろうとすることが多かった。
そういうお金を使った見栄の張り方をするような所があったので、件数は少ないが、おかしなお金の使い方をした後始末を遺品整理などと並行してやらなくてはならなかった。


土地の処分過程でも、隣町の土地家屋の隣に住むH家から義父にお金を貸していたという話を出され、残されていた領収証には倉庫を取り壊す費用としてごく少額をH家から借りており、領収証の裏には義父の字で「もし土地が売れた場合は、倍額にして返します」とあった。条件としては無茶苦茶だ。


そんな感じで、他人からどう見えるかが常に最優先の課題だったので、家族を蔑ろにしてきた。
ただひたすら「自分」しか見つめてこなかった義父は「他人からの素晴らしい評価」だけを残し、私たちには決してまともに向き合おうとせず崖と擁壁と未登記家屋を残して死んでいった。

むしろ、死ぬのがあと10年遅かったら、本当にあの土地は処分できなかったかもしれない。そう思うと、早く死んでくれてよかったとすら思う。
今はもう彼の骨すら残っていない。

やったことは死後であっても帰ってくるのだ。


古い世代は土地をありがたがり、家を資産と考え、モノを持てば持つほど豊かになれると考える。
しかし私たちは受け継いだ山林と土地家屋に人生を脅かされ、家の残置物には大金を払って処分をした。
土地も含めた全ての処分費は総額で200万円はくだらなかった。

これでもまだ処分が叶ったから運が良かったほうで、処分ができなかったら擁壁更新の2000万円をさらに抱え、土砂崩れが起きた場合、運が悪ければ数億円の賠償金を一生涯かけて支払い続ける生活になる。

そんな人柱のような人生、果たして生まれてきて意味があると言えるのだろうか。
そういうものを自分の子どもに用意しておきながら、産んでやった育ててやったと恩着せがましい言葉を本当に言えるのだろうか。

あの土地に対して一人一人が少しずつ小さなミスや背信を重ねてきた。
ほんの少しいいだろう、難しいことは分からないから、知らなかったから、それが積もり積もって私たちに一気に降りかかってきた。

あなたは大丈夫だろうか?

世の中には「知らなかった」では済まされないことがたくさんある。
日本は法治国家だ。
民法の規定は「すべての国民が民法を知っている」という前提のもとに運用されている。

まさに「知らなかった」では済まされない世界に私たちは存在し生きているのだ。
愛する家族にそういう思いをさせたくないのなら、相手の立場と将来をしっかり考え現状を冷静に見て、リスクを正しく認識できる知識と良心を大事にしてほしい。


さて夫家であるが、夫と夫兄弟は一家の末代になる。
夫兄弟は遠く離れた地で生涯未婚を貫くであろうし、夫と私のあいだに子どもはいない。

お互い遺伝に明確な不安要素があり、各自の子供時代に困難が多かったので心理的にも前向きになれず、転勤が多い生活なのもあり作らなかった。
夫の兄弟はどうするのかわからないが、夫と私は死後、私家のお寺に入り供養されることになった。

死後の手続き等は私の甥がしてくれるというので、私たちは甥ひとりを相続人とする遺言書を法務局に託した。


実質、夫は私家に引き取られたのだ。
もう誰もかつての夫一家の土地には帰らない。

一家の顛末はこれにて結びとなる。

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