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聖名③

 気付くと自分の部屋のベッドに横たわっていた。

 何だか頭がぼーっとして気だるい感じがする。見慣れた天井を見上げたままそのままゴロゴロしているうち、寝起きだと言うことに気付く。枕元のスマホを見ると朝の9時過ぎだった。少し寝過ごしたと思い、寝巻きのまま部屋を出て僕は鼻を鳴らした。何だか焦げ臭いような、煙たいような。階段を降りる脚の違和感の正体、脹脛と太腿の軽い筋肉痛に既視感を感じる。

    8月最後の日曜日。この日行われる地元のお祭りに、大好きな先輩にが誘ってくれたことが嬉しくて、浴衣を新調して貰ったのだ。そんな大事な日に僕の左頬には小さな赤い点が二つ出来ていた。

「うそッ、マジで最悪〜ッ。」

 目を閉じてケアルを唱えてそっと瞼を開けて見たけど、呪印ニキビは左頬から消えていなかった。
 
 僕はアクネ菌撲滅を心に誓った。

 溜息を吐きながらリビングに入ると、薄紅梅の浴衣が掛けてある。まだ一度も袖を通していない糊の効いたパリッとした仕上がり。お揃いの生地で作ったリボンと巾着がヤバ過ぎて死ぬ。

「聖名、あんまり遅くならずに帰りなさい。8時過ぎたらお父さん迎えに行くからな。」

「間に合ってまーす。」

 桜色のペディキュアを塗りながらしれっと断ったら、お父さんは大人気なく泣き出して弟の瞬に慰められている。瞬は迷惑そうに僕を見て「メンドくさいから泣かせないで。」とボヤいた。キッチンでお母さんが笑っている。

 夕方6時半。紫紺色の浴衣姿で現れた先輩は、浪人結びの帯がとっても粋で色っぽかった。それでいて所作の一つ一つに品がある。玄関に挨拶に出て来たお母さんは、先輩の色男っぷりに驚いていた。心配性のお父さんが、瞬と一緒にいつまでも玄関のドアから見送っている。

 赤い鼻緒の下駄が先輩に歩幅に追いつくように音を立てる。すると先輩はあくまでスマートにスピードを落とし、僕を気遣ってくれた。僕と先輩はいつもと違う自分たちの装いを褒め合いながら神社までの道を歩いた。二人の頬は夕陽の色に染まり、それからどんどん暗くなって、気付けば提灯の灯りが集まった人たちの顔に、はっきりと陰影を映し出していた。

 鳥居を潜り参道へ入ると既に人が一杯だった。綿飴と林檎飴とかき氷、祭囃子に水風船を弾ませる。射的、型抜、金魚掬い。鉄板の熱が小気味良い音をたてると、立ち込めるソースの香りが食欲を唆る。

 「ねえ先輩、屋台でどれか一品しか食べられないって言ったら、何食べる?・・・って焼きそばか。ごめーん、前にも聞いたよね。」

 すると先輩は一瞬真顔になって、そして

「誰か他の人ともお祭り来たの?」

 と聞き返された。僕はしまったと思い、

「あ、違う違う。勘違いしちゃった!お、おとーさんだったかな?」

 咄嗟にそう誤魔化すと、、先輩は「参ったな、お父さんか。」と言って笑ってくれた。僕は焦って、笑いながら先を歩いた。

 提灯の灯りの下を抜けて拝殿に続く石段を見上げると、閑かな暗闇が広がっていた。歩き疲れたのでひと休みしようと先輩を誘うと、鳥居の前で少し躊躇している。でも、さっさと石段を上って行く僕を気遣って直ぐに追いかけて来てくれた。慣れない下駄で少し擦りむいた指を鼻緒から引き抜くと初めて塗った薄い桜色のペディキュアが少し剥がれ落ちていた。

「痛いの?」

 先輩が優しく尋ねるので、促されるまま並んで拝殿のきざはしに腰掛けた。僕は憧れのお姫様になった気分でドキドキした。でもその何ドキドキの何処かで首を傾げる僕もいる。僕はこんなふうに大事に扱ってくれる相手を望んでいただろうか。誰かに守ってもらえる様に振る舞っているんだろうか。

 人間は、自分に無害な相手には懐き、無意識に身の安全を選択するように出来ているのではないだろうか。安心安全安定を求める細胞に従い、ホルモンに納得させられているだけなのではないだろうか。

 だって、DNAがいくら望んでも、それは期間限定で、必ず脅かされ誰にも何にも守ってもらえない瞬間は訪れる。

 そう、誰もが独りだ。
 あれ、急に何でこんなこと考えるんだろうか。

 神社の境内の鳥居の内と外。静謐と喧騒の間。暗闇と燈のグラデーション。生と死。僕と先輩。

「行かなくちゃ。」

 その時、高台の神社から見上げる夜空に花火が開いた。

序〜第三話、はてなブログからの転載です。