見出し画像

錯覚(短編小説20)

マイナンバーカードの手続きをしに、綾が区役所に向かう道中。ふと、空を見上げると、うっすらと月が出ていて、綾はなんとなくその月を見上げながら歩いていた。綾は歩いていて、確実に区役所に向かって進んでいるのに、あのお月様はじーっとあの位置にいて変わらないように綾には見えている。

綾は、なんとなく、有名なモナリザの絵を思い出す。モナリザはどの角度から見ても目が合うことで有名だけど、数年前に、それは思い込みで、実際のところそうではない、という実験結果が出たらしい。

ということはあのお月様が動かないように見えるのも、きっと思い込みなんだろうな、と綾は思う。なのに、多くの人がおんなじように思い込むものだから、それがまるで世界の真実のように思われることがあるのだろう。

ではなぜ、人はおんなじように思い込むのだろう。お月様が動かないように見えるのは「錯覚」でしかなくて、「事実」ではないのに、本当に不思議だ。知覚というものはとうてい信頼できるものではないな、と綾は思う。

そんなことを思い巡らしているうちに区役所に着く。ふとまた周囲を見渡すと掲示板に「地域の今年の死亡者数」が載っている。どうやら今年が始まって間もないのに、もうすでに去年の死亡者数より今年のそれの方が多いようだ。何か事故でも起きたのだろうか。それとも本当は,どうなのだろうか?

「●●番の方、どうぞ」

窓口から声がかかり、綾は反射的に一歩踏み出す。

今、綾は番号で呼ばれることに何ら違和感を覚えていなかった。すっと、一歩踏み出した。

ー 一体これは、なんの錯覚なんだ ー

綾はため息をついて、それでもやはり、歩いていく。また一つ自分についたマイナンバーを見ながら、誰だろう、これ。と思うと同時に、何番にでもなれる「自分」を感じていた。

おしまい

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?