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家賃1万円の事務所からスタートして、親会社の利益を1000%伸ばす前夜まで【oneの歴史①】

今回は株式会社oneの創業者・代表取締役の荒木さんにoneの歴史について聞きに行きました。

家賃1万円の事務所からスタートして、クライアントでもあった会社の100%子会社になり、紆余曲折の後独立して神楽坂のオフィスに移り、現在大変革を迎えているone。そんなoneの歴史を築いてきた荒木さんに熱く語っていただきました

今回は「oneの歴史」の第1回目です。

インタビューされる側:創業者・代表取締役 荒木克彦
インタビューする側:新卒社員 小笠原朋子

社内でお誕生日を祝われている荒木さん

荒木:荒木です!43歳になりました!(※インタビュー当日がお誕生日でした)よろしくお願いします!

――よろしくお願いします!荒木さん、今日はoneの歴史について色々と教えてください。お聞きしたいことは、創設から今に至るまでのoneの歴史です。

2010年9月 麻布十番に会社設立
2011年4月 オフィスを渋谷へ移転
2014年4月 セールスプロモーション事業を開始
2018年1月 リサーチ事業、マーケティング支援事業を開始
2018年3月 オフィスを神楽坂へ移転
2020年12月 株式会社zeroを通してWebマーケティングの支援を開始。
2021年1月 株式会社eight(代表 竹内信悟)、株式会社SPOWERTS(代表 浅野陽平)がoneグループの一員へ
2021年4月 CRAZY CAPITAL設立

oneには創設してから麻布十番に1万円で事務所を借りていた時代と、渋谷で別の会社の100%子会社になっていた時代と、再独立して神楽坂に移転してから現在に至るまでの時代がありますが、まずは麻布十番時代から別の会社の子会社になるまでの経緯をお聞きしていいですか?

荒木:たしかに、何度か引越ししてますね。その都度がoneの転機でもあったので、それぞれの時代について話しますね!

最初の麻布十番時代を語るにあたって、まず、私がPR・マーケティング業界に携わったきっかけから。20代中盤に、先輩とPR会社をスタートして、先輩が社長で、私が取締役というかたちでやらせていただいていました。その会社でPRを学び、独立して株式会社oneを作ります。

会社を登記する際に、所在地を当時住んでいた神奈川県横須賀市の実家にしようとしたんですけど、PRの事業で横須賀の住所だとどうかなーと思って……笑。客観的に考えて、新聞社・出版社・TV局などメディアの多くは都心にあるわけで、そこへ頻繁に行きやすいと思われる都内の住所の方が信頼されやすいだろうと。

なので、都内に事務所を構えたい、けれど一部屋借りるお金はない、という時に、当時色々とアドバイスを頂いて、大変お世話になっていた株式会社アスポの前田社長に無理を承知で、このくらい(※手を肩幅くらいに広げる)のスペースを貸していただきたいということと、そこで会社を登記させていただきたい旨を相談したところ、ご快諾いただき、麻布十番のアスポ様のオフィス内に1万円で事務所スペースをお借りすることができました。

ということで、株式会社oneは2010年9月に麻布十番に家賃1万円で誕生しました。爆安で場所を貸してくださったご厚意に対し私が恩返しできることとして、健康経営支援サービスを軸とされている株式会社アスポ様のPRを、費用を頂かずご支援させていただきました。

そんなかたちでスタートしたのが、oneの立ち上げ期、麻布十番時代です。

――その後、渋谷時代ですね。なんでそこから別会社の子会社になったんですか?

荒木:会社を立ち上げて間もなく、コンペに勝って、初めての年間契約を頂きました!それが後の親会社になるリサーチ企業のPR業務です。さあこれからPRの取り組みを開始していこう!と、その会社の経営陣と話し合う中で、社長が名門校の野球部出身だということをお聞きしまして。

私も、神奈川県代表で甲子園に出場する学校で高校球児をしていましたので、意気投合して。まあ野球を一生懸命やっている人に悪い人はいないよねということで、シェイクハンドして、「一緒にやらないか」となりました。
つまりそれは100%子会社になって、会社をがっちゃんこして一緒にやらないかということですね。

先方からすると、リサーチだけじゃちょっとつまらない、PRの機能があった方が面白い事業ができるよねと思っていて、我々は逆方向の考え方で、プロモーションを実行する前に市場やターゲットをしっかり調べてから、伝える手段としてPRが最適なのか、あるいは広告などの施策が効果的なのかということを、データから判断し提供することが世の中に必要とされるタイミングが来るだろうと思っていたので、お互いに求めていたことが合致したということです。

当時、先方は30名規模、oneは3名でしたから、組織の大きさから言って我々が「子」になるのが妥当だな、というのが子会社になった経緯です。

その頃に、私の右腕的存在が、現在oneの取締役である浅野でした。大手PR会社からの転職でoneにジョインしてすぐにその話があったんです。入社直後に子会社化されるって、この会社大丈夫かなとかちょっとネガティブに受け取ることもありそうじゃないですか。

なので彼には、この話どうしようかと聞いてみました。そうしたら浅野は、人脈とアイデアがPRの肝である、つまり「メディアとの連携」と「自分のアイデアと企画力」が肝なのだとすれば、事業を継続していくことに組織体制はそこまで重要ではないはずだと。

だから、仮に子会社になることでoneに万一のことがあったら、やめて僕らで“two”をやりましょう、と言ったんです。

そういう、周りに揺るがない強い気持ちを伝えてくれたのが、本当に後押しになって、「よし、じゃあやろう」と決心し、2011年の2月から3月、東日本大震災のあった3.11の1~2週間前くらいに、子会社としてジョインすることが成立しました。

それ以前に、3月11日に開催されるマーケティングフォーラムに、親会社もoneも、それぞれブース出展することを決めていたんです。そのフォーラムの最中に大地震が発生して、東京でも多少バタバタして、その影響で合流が1ヶ月くらい遅れたのかな。

でもおそらく4、5月には麻布十番の事務所を貸してくださっていた社長に「すみません!貸していただいたのに、早々に出て行きます!」とお伝えして、渋谷の事務所の一角で、再スタートを切らせてもらったという流れです。

――渋谷の事務所は、親会社のオフィスとは別ですか?それとも一緒のところですか?

荒木:親会社のオフィス内です。もとは小会議室として使われていたスペース、5~6名座れるほどの広さですかね、まあ我々は2、3名しかいなかったんですけど、そこをまた間借りして、PRの業務を粛々とやっていました。

その頃は平均して5社ほどのクライアント様のお仕事をさせていただいていました。当然、コンペの契約通り、親会社となったリサーチ会社のPR業務も行っていました。

――親会社のPRについて、パートナーでやるという選択肢もあったのではと思うのですが、やはり一緒になった方がやりやすいというところがあったんですか?

荒木:うーん、やりやすいかどうかというよりは……。さっき、『「調べる」と「伝える」両方必要な時代が来ると思ってた!』って格好よさげなことを言ったんですけど笑、

当時の私は、やっぱり安定経営をしたかったんですよ。で、そのためにはお金って大事だなと思っていて、幸いクライアントとなった方が一緒にやりたいと言ってくださるという状況があって。

年間契約はいただいているものの、いつ切られるか分からない状態よりはシェイクハンドして一緒にやっていき、その中で先方のお客様の課題もシェアしていただいて、仕事させてもらえる方がいいと思いました。

まあ100%子会社なので親会社の資産なんですけど、それでもoneで採用した社員もいますし、oneとして生き残るためにどういう手段ができるだろうかという、安定を取りに行くための選択だった部分もあると思います。

――そうなんですね。そこから親会社の業績が芳しくなくなって、荒木さんが親会社の経営を見ることになったと聞いていますが、何をしてそんなことになったんですか?普通子会社の社長が親会社の経営を見るなんてことないと思うのですが。

荒木:そうですね笑。

――何があったんですか?

荒木:ジョインしてから2年半から3年くらい経って、各社おのおのやりながらも、共同で取り組みさせていただくクライアント様も増え、一緒に仕事しているという感覚は生まれていました。

ただその中で親会社の経営に関して、かなり厳しい状況がありました。それは私もリアルタイムではあまり詳しく知らなかったです。半分くらいは分かりますけど、親会社の財務状況を全部見ているわけではなかったので。

そんな苦しい時期にあったある時、私は親会社のことを海外に宣伝するために、シンガポールに行っていました。日本には大きな代理店さん以外にも、調べるとか伝えるとか広告を扱えるイケてる会社があるよというのを、現地の企業さんたちにプレゼンしていたんです。もちろん英語で。

――おお。

荒木:嘘です。

――笑。

荒木:バキバキの通訳ありでやらせてもらっていたんですけど笑。

その場に親会社の経営陣が来てくださって、そこで「荒木さん、ちょっと経営がきつい」と、経営についてご相談をいただきました。当時、子会社なのでそんな遠出していただくとかいらないはずなんですが、お越しいただいて。でも私はその時に、経営への参画については一回お断りしています。

――え、そうなんですか。

荒木:で、日本に戻った後もう一回ご相談いただいて、またお断りしました。正直、荷が重いなと苦笑。三顧の礼ではないですけど、3回目来ていただいてさすがに本気で考えて、経営状況の数字を全部見せてもらった時に、確かにやばかった。このリカバリーを誰かに依頼するのであれば、私がやった方がいいなと思いました。

それは経営に関する自信も多少ありましたけど、その時oneは100%子会社なので、会社とはいえ事業部みたいなものですよね。親会社が潰れたらoneも潰れるんですよ。だったら自分で立て直しをやった方がいいなということで、「分かりました」とお伝えして、親会社の経営を見ることになりました。

同時にお伝えしたことがあって、「その代わり、全権ください。全責任持ってやってこそ、やる価値があると思うので、やりますよ」と言って、それでいきましょうということを言っていただいて、取締役COOとしてジョインしたという経緯ですね。

経理部門を除いて、親会社の事業の、戦略、営業、運用、広告・宣伝、さらには新卒採用も中途採用も全て見ました

――結局受けたのに、なんで最初オファーされて断ったんですか?

荒木:経営者として思うところはあっても、私がその道のプロと言えなかったからでしょうね。私はもともとPR畑。

3年間一緒にやってきたシナジーはあったとしても、当時の私はお客様へのソリューションとして「この企業、この商品について調べてください、そのデータをもってPRをしましょう」みたいなことをサービスとしてやっていましたが、リサーチ事業で収益を出すプロではなかった。

自分の土俵ではない会社の経営に入った時に本当に事業再建できるのかという不安はありました。

――でもそこから利益を1000%伸ばすんですよね?

荒木:そうです。

――具体的に何をしたんですか?

荒木:具体的には――。(続く)

利益を1000%伸ばした話、そして神楽坂に移ってきてからのoneの話は次回に続きます。お楽しみに!


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